不器用なふたり
午後12時頃、彼女から「今日空いてる?」とLINEが入った。友人と遊ぶ予定があったけれど、その予定をキャンセルして、今夜は彼女と会うことにした。彼女と会うのは3ヶ月ぐらいで、存在すらもすっかり忘れていたぐらいだ。
ずっと在宅ワークだったため、電車には久しく乗っていない。家の周りにあるお店で生活は事足りるし、市街地に出るなんて数ヶ月ぶりだ。今は家にいてもUbereatsを使えば、食料を調達できるし、Amazonと楽天を駆使すれば、生活用品のほとんどが手に入る。本当に便利な世の中になったものだ。
そんな僕とは違って、彼女は毎日のように市街地に繰り出している。電車に乗らない僕に、いつも「通勤ラッシュと帰宅ラッシュは本当にしんどい。通勤時間をずらして、緩和してくれればいいのに」と愚痴をこぼしていた。でも、愚痴を言いながらも、しっかり仕事で結果を出す。そんな彼女は僕にってとても眩しい存在だった
自宅から市街地に出るためには、30分ほど電車に乗る必要がある。電車はいつも退屈で、つり革広告ぐらいしか楽しみがない。だから、いつも時間を潰すために、小説を読むことにしている。今日も本棚から適当に小説を取り出し、駅へと向かった。
今回選んだ小説は原田マハの「独立記念日」だ。辛い過去と決別したり、新たな人生を踏み切るための一歩を踏み出す複数の物語で紡がれた短編集。この本を読むたびに、勇気をもらえるし、もう一度頑張ろうという気持ちになれる。無意識に選んだ小説だけれど、もしかするとこの恋を頑張りたいという意思の表れかもしれない。
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彼女との出会いは、友人の友人からの紹介だった。LINEのアイコンはよくわからないキャラクターで、どんな女性なのかがわからなかった。数回やりとりしたあとに、「顔写真送ってよ」とメッセージを送って、そのときに初めて彼女の顔を知った。
「ごめん。不細工だった?」
「いや、想像以上に美人でびっくりだよ」
彼女とのやりとりはずっと長文のラリーだった。とても丁寧な言葉づかいで、毎回長文で返してくれる。とても丁寧な言葉づかいをする彼女は、僕の想像以上に美人だった。
この話を友人にするたびに、「顔がわかってタイプだったときに紹介してもらえよ」と言われる。でも、顔も知らない存在とやりとりをするのも楽しいような気がする。顔がタイプじゃなければ、落胆が多いかもしれないけれど、顔がタイプだったときは喜びは倍増する。
彼女とは恋人未満友人以上の関係だった。会えばキスもハグもするし、なんなら共に一夜を過ごしたこともある。でも、なぜか恋人とは呼べない。恋人になった途端、いろいろな責任が生じる。そのいろいろが野暮ったくて、恋人ではなく、恋人未満友達以上の関係がずっと続いていた。
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雨が降る。街灯のネオンが地面を照らし、たくさんの人が行き交う街には、雨音はいとも簡単にかき消されていた。市街地はやっぱり苦手だ。車の通りが多いから空気が汚れているし、夜だというのにどこもかしこも昼間みたいに明るい。
市街地の光は希望の光ではなく、輝けなかった人を埋葬するための光でもある。世の中で光を浴びる人間は、ほんの一握りだ。光を浴びずに、消えてしまう人のほうが多い。それでも人生は続く。だから、輝けなかった人たちへせめてもの慈悲として、今日も街は人々を照らし続けている。
なんてことを妄想している間に、彼女がやってきた。最初は酷く緊張して、足が震えていたくせに、慣れとは怖いものだ。でも、彼女はいつ見ても飽きない。クールかつエレガント。知性のある綺麗な黒髪。ローズピンクで綺麗に塗られた唇。凛とした眉。彼女を眺めようと思えば、ずっと眺めていられる。なぜこんなに素敵な女性が、僕とデートをしているのかもわからない。
梅田の東通り、目の前でキャッチのお兄さんがキャッチに失敗している。めげずに別の人に声を掛ける。声を掛けてもなかなか立ち止まらずにもはや空気と化している。でも彼らはそんなことはお構いなく、お金のために声を掛け続ける。彼らのような忍耐力があれば、生きるのが少し楽になるかもしれない。
「ほらぼーっとしてないで早く飲みに行くよ!」
彼女の一言でふと我に返る。魚が食べたいという彼女の要望にお応えして、予約していた海鮮居酒屋へと足を運ぶ。とりあえず生ビールで乾杯をして、枝豆とほっけの開きをオーダーする。
話が盛り上がり、お互いにゲラゲラと笑う。居酒屋には品は必要ないし、お酒が挟むと、彼女はいつもより饒舌になる。食べたいと言っていた魚をほとんど残す。残飯処理はいつも僕の役目で、こうなることは居酒屋に行く前からわかっていた。
程よくお酒を飲み、程よく陽気な彼女。いつもならこのままホテルへと直行するのに、2軒目は喫茶店に行くことになった。なにがあったのか詮索することもなく、彼女のリクエストにお応えした。
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マスターに席に案内され、アイスコーヒーを2つ頼む。店内が暑いからという理由で、彼女がシャツの第一ボタンを外す。白いシャツの隙間から白い肌が見える。その姿にドキッとしてしまった。彼女がボタンを外すそのさまは「美しい」という言葉がぴったりだった。
「6月から隣の県に引っ越すんだ」
彼女なりのさよならの言葉だった。
直接さよならを言えばいいのに。でも、彼女はいつも不器用だった。自分が辛いときは、誰だって助けてもらいたいのに、誰にも悩みを打ち明けず、1人で抱え込む。おしゃべりなくせに、肝心なことは何も話さないし、今回の恋愛に関しても、自分の気持ちを相手に伝えられない。いや、不器用だったのは僕の方だ。彼女にきちんと思いを伝えていれば、ずっと一緒にいれたかもしれない。
彼女はなにも悪くない。彼女に「もう会えない」と間接的な言葉を言わせた時点で、男性側の負けだ。勝手にいまの関係性がお互いに心地いいと勘違いしてしまった。でも、それは僕の思い違いで、彼女は恋人という関係を求めていた。
今日彼女とさよならをすれば、きっとこれから先、彼女と会う機会は2度とないだろう。
ここで彼女を抱き寄せれば、何かが変わるかもしれない。でも、そんな勇気は持ち合わせていないし、彼女をつなぎとめるための洒落の効いたセリフも出てこない。
ただシンプルに「もう少し一緒にいよう」と言えばいいのかもしれない。別れを決心した女性は、たった1つの言葉では揺るがない。だからせめてもの救いとして、今以上に綺麗にならないで欲しいし、風の噂で誰かと結婚したという話を耳にしないようにしてほしい。
彼女とさよならをする。2人だった世界は、1人の世界になった。
酔いはすっかり覚めた。彼女の笑った顔をいつまでも見ていたかった。
雨が降っていた街はすっかり晴れていた。雨上がりは少しだけ寒さを運んでくる。
今日は、不器用な2人の独立記念日。
生ぬるい夜風が吹く。涙が頬をそっと伝った。