その優しさに触れて
仕事の途中、少し休憩するために近所の喫茶店へと足を運ぶ。
くたくたに疲れた顔をしていたからか、マスターから「今日は、お疲れのようだね。まあここは何時間いてくれても良いから、思う存分のんびりしていってよ」と声を掛けられた。
その気遣いが嬉しくて、入店してすぐに「素敵なお店」だなと思った。
初めて入るお店ではなるべく失敗したくないから、たいがい定番メニューを頼むようにしている。だから僕はいつも通り定番の日替わり定食をオーダーした。
「焼き魚と焼きそばどっちが良い?」
僕は、すかさず「焼き魚でお願いします」と返答する。
「若い子は焼きそばを頼む人が多いんだけど、めずらしいわね」
焼きそばはお家で簡単に作れるけど、焼き魚は部屋に充満する匂いや後処理が大変だから、家ではあまり食べないようにしている。だから焼き魚を選択したわけなんだけど、どうやらこの喫茶店では焼きそばが人気メニューのようだった。
「はい、お味噌汁の具をたくさん入れておいたからたくさん栄養を摂ってね」
マスターの気遣いに触れ、つい優しい気持ちになる。人の気遣いが、こんなにも胸に突き刺さるなんて僕は疲れているのだろうか。いや、気遣いをされた事実が嬉しかったに違いないや。
焼き魚の小骨を、ひとつずつ丁寧に取る。魚の骨を、母親に取ってもらっていたときの記憶がふと蘇る。小さい頃は、自分では何もできない子だったよなぁと成長した自分を少し誇りに思えた。
でも、めんどくさいものはめんどくさいのだ。何歳になろうが、魚の小骨を取る行為は、非常にめんどくさい。
「この魚は、骨まで全部食べられるわよ。今の若い子はカルシウムが不足しているから、骨までしっかり食べてカルシウムを摂ってね。ああ、私お節介焼きなの。ついつい口を挟んでごめんなさいね」
初見のお客に、ここまでの気遣いをしてくれる。マスターの好意が、お節介だなんてとんでもない。いつもよりもご飯が美味しくて、なんとご飯を2回もおかわりしてしまった。
普段は茶碗1杯分しかご飯を食べない自分が、お昼からなぜかご飯を3杯も食べてしまった。相当嬉しかったのかもしれない。人の優しさに触れ、目から零れ落ちそうな水滴をグッと堪える。まるで、何もなかったかのようにご飯をもしゃもしゃと食べている自分がそこにはいた。
マスターは、人とのやりとりを丁寧にする人だった。
「お店に来てくれたお客様を笑顔にするのが仕事なの」
当たり前のことかもしれないけど、お客様を笑顔にするのが非常に難しいのだ。でも、マスターの話には説得力がある。僕が受けた気遣いは、まさに思いやりの塊だった。
そこには愛があって、優しさがある。今までの経験上、初見のお客様への対応が悪いお店なんていくらでもあった。でもそんなことは一切考えず、最初からとても素敵な接客をしてくれたことに、非常に感銘を受けた。
気遣いは即席では身に付かない。自然と気遣いができる人は、普段から相手を気遣う意識が身に付いている。その姿勢を見習わなきゃなって強くそう思った。
相手の気遣いを素直に受け取る。そして、相手をしっかりと思いやること。
マスターが与えてくれた好意には、しっかりと好意で返す。
「マスターの気遣いとても素敵でした。ご飯もめちゃくちゃ美味しかったので、また絶対来ますね!」
お世辞抜きの正直に思った言葉を、マスターへと投げ掛ける。
「わぁ、それは嬉しいわねぇ。いつでも待ってるわよ。もうあなたの顔を覚えたからまた来た時も、サービスたっぷりしてあげるわ!」
空を見上げると、さっきまでの大粒の雨がまるで嘘かのように、晴れ間が差していた。