命朽ち果てるその時まで
自分の命の寿命はあとどのくらいあるんだろう?
そんなことは神様以外には知り得ないことだし、まだ自分の命が朽ち果てる時のことを知りたくない。
2019年に難病になってから、生きたいという気持ちが強くなっている。
難病になっただけで死に直面したわけではない。実は0歳のときに死にかけているんだよ。そっちの方が一大事じゃんって、そんなことは微塵も覚えていないし、そんな事実を知ったところで、「ああ、そうですか」って他人事になってしまう。
難病になってから「生きる」ことについてたくさん考えた。
少しの間だけど目が見えなくなったんだよ。もう不便で不便で仕方ない。外にも行けないし、当たり前のことを当たり前にできることの大切さを、尊さを知った。
五体満足であること自体がもう幸せなこと。気づいていない人もいるだろうけど、本当に幸せなことなんだよ。
幸せのハードルもぐんと下がった。朝起きて目覚めがいいだけで幸せだし、好きな人たちに会えるだけで胸が高まる。特別なことではなく、些細なことで幸せを感じる。
昔はおじいちゃんになる前に死にたいと本気で思っていた。だって老いていく自分を見るの嫌じゃない?体力も肌の艶も全部衰えていくんだよ。そんなの絶対嫌だよ。美しい体のままで、素敵な自分のままで死んでいきたかった。
でも最近はそんなことどうでもよくなって、おじいちゃんになっても、命が朽ち果てるまではきちんと生きていたいなって思うようになったんだよ。そして生きてもっと色んな経験をしたいなと思うようになった。
生きていれば様々な経験をする。経験が濃い人ほど素敵な老い方をしているよね。大人の色気ってやつはきっと経験値が多い人にほど出るんだと思う。
去年の僕のテーマは「色気」だったんだよ。でもどうやっても色気ある人間になれなかった。僕には圧倒的に経験値が足りなさすぎる。もっと色んな経験をして、年齢を重ねるたびに、色気ある人間になりたいなと思ったのが結論だ。
どんな老い方をしていくんだろうってワクワクするようになったし、かっこいいおじいちゃんになりたいなって。憧れられたいとかそんなことは思わない。ただ自分が納得する生き方をして死んでいきたいなと。
ふとしたときに命を役割を考えることがある。命の役割のことを考えたところで、答えが出ないのがオチ。でもなぜかふと命の役割について考えてしまう。
多分生きる意味なんてない。生きる意味なんてなくても、勝手に生きてるし、日々は続いていく。生きる意味を見出せたのなら、人生に活路ってやつが見出せるのかな。
それすらもわかんないよね。まあ生きる意味なんて死ぬ前に分かればいいか。
「使命」ってのは命を使うということ。だから命がなくなるその時まで生きれば、それだけできっと自分の使命は果たされる。
だから死ぬまでは生きていたい。でも好きな人が死ぬ前にこの世を去ってしまいたい。1人になるなんて耐えられないからね。これも傲慢な考えかもしれない。でも好きな人に自分よりも先に先立たれるなんて絶対に嫌だ。
生きた証を何も残せなくてもいいだなんて、思ってもないことは言えやしないけど、生きてきたからには誰かの記憶に残るような生き方をしたいよね。
ああ、これから先も死ぬまでは生きたいね。最近楽しいし、この楽しさをこれでもかというほどに噛み締めていたい。
気楽に生きよう。肩肘張り続けるのもなんか疲れるしね。
おしまい。