小さい頃からずっと文章の恩恵を受けてきた
小さい頃から自分の感情を人に伝えるのが苦手だった。言いたいことに蓋をして、相手のペースに流されるのが趣味の男の子。お家に帰るたびに意見が言えなかった反省会をして、「次こそはちゃんと自分の意見を話そう」と意気込む。反省会の成果が表れたことはなく、言いたいことを言えず、「へへ、そうっすよねー」みたいな感じで、笑って誤魔化すのが精いっぱいだった。
いつしか人と話すのが、めんどくさくなっている自分がいた。「言語化も下手だし、どうせ自分の意見を言っても理解されないだろう」と、どんどん卑屈になる始末。そして、挙げ句の果てには、コミュニケーションができないのを相手のせいにしている自分がいた。何事も相手のせいにしてしまったほうが楽なんだけど、自分にベクトルを向けて、改善点と向き合わなければ、改善されることはない。向き合ったほうがあとで楽になるのに、今の苦しみから逃れるすべを探すことで手いっぱいだった。
相手のせいにしている自分がださくて思えて、そんな情けない自分をとにかく変えたかった。とはいえ、何をどう変えていくのかはよくわからない。言葉以外のコミュニケーションがなんなのかを探った結果が、「文章にして伝える」ことだった。そう僕が文章を始めた理由は、人に物事をうまく伝えるすべを身に付けたかったからである。
とはいえ、校内の読書感想文で賞を取った程度しか、文章での実績はない。読書感想文もコミュニケーションのためではなく、書きたいことを書いてみたら評価されただけの話。これまでに相手に伝わる文章を書いたことは、1度もない。
自分の書いた文章に自信がない僕は、自分の書いた文章を誰かに見せることを考えもしなかった。適当にブログアカウントを作成し、鍵をかけて自分の書きたいことをただ書き連ねる。嬉しかったことや恋人が初めてできたこと、とにかくその日のできごとをただ書き連ねるその行為がたまらなく楽しかった。そして、相手には直接言えない愚痴や不満など、醜い部分ばかりが書き連ねられる、見せたくない感情を誰にも見られないところに吐き出すことで、自分の精神を保っていた。
中学時代にデコログが流行り、僕の周りの友達も面白おかしくブログを書くようになった。お互いの書いた文章を読み合い、「ほんとくだらねぇな」って言いながら笑い合う。文章を通じて、隣の中学の子と友達になったり、学校内では話さなかったクラスメイトとも話をするようになった。
ただ自分の書きたいことを書いているだけで、友人ができることがあるなんて、文章が持つ力は本当にすごい。文章の面白さに気づき、今もこうして文章を書き続けている。そして、文章を書き続けるだけの行為が、いつしか仕事になり、自分の生活に欠かせないものとなった。
今も読者さんがSNSで感想をくれたり、友人や知り合いが直接「あの記事読んだよ」と声をかけてくれることもある。反応をもらえることが嬉しくて、文章を書き続けている節は絶対にある。そして、今のつながりは僕が文章を書いてなかったらできていないつながり。学生時代からずっと文章に救われっぱなしで、文章がなければ、今の自分はいないんだろうなって思う。
僕はこれまでに、なんども文章の恩恵を受け続けてきた。コミュニケーションの改善のために、始めた文章を書く行為。28歳になってもこうして文章を書いているなんて思ってなかったし、何かを続けることにはちゃんと意味があるんだなって。そして、これから文章を愛し、文章に助けられながら生きていこうと思うのでした。