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自分探しの旅はもう終わりにしようか

「何者かになりたい」

そんな悩みを抱いている人はかなり多い。そんな僕自身も何者かになりたいと思っていた1人だ。学生時代に自分探しのために、ヒッチハイクをしたり、九州1周をしたりもした。でも、どこにも自分はいなくて、そんな当たり前の事実に打ちひしがれるだけだった。

何者とは一体なんなのか。その定義すらも知らないくせに、何者かになろうとしていた。明確な定義すら定まらないその程度の感覚では、ゴールには一生到達しないのがオチだ。決して何者かになんてなれやしない。

それでも人は何者かになりたがる。何者かになれば地位や名声が手に入るのかもしれない。そして、何者かになれたその先にあるものが、一体なんなのかを知らないままに、ほとんどの人が何者かを目指す。

正体不明の何者か。すごい人になりたいのか。それとも世間に認めさせたいのか。動機は人それぞれで、正体不明の何者かになるために、不明確な何かに縋って懸命に生きている。

そして、高い景色を見上げては、その景色を見るために懸命にもがく。もがけばもがくほどその高すぎる景色に絶望を抱き、「自分は何者にもなれない」と諦める。それでも諦めず何者かになりたがる人もいて、その姿が勇敢なのか、滑稽なのかは誰も知りえない。

さて、自分探しの旅の終着点は一体どこなんだろうか。

自分探しの旅の終着点は、「人は何者にもなれない」と気づくことだと思う。大海原の中をどれだけ駆け抜けても、空を飛んでも、そこに自分はいない。自分は自分の中にしかいないし、何者かになんてなれやしない。

この事実を知ったのは、大学4年生のときだ。それでもなお何者かになりたがっていた。いや、何者かになるのではなくて、自分の名前で勝負したいだけだ。そして、これまでのすべての挑戦が何者かになるための挑戦で、成功も失敗もすべて何者かになれなかった証明でもある。

このnoteの毎日更新も、誰かに自分の存在を知らしめたいのかもしれない。最初は習慣化のためにはじめたのに、いつの間にか「読まれたい」に変わっていた。なにかをひとつ達成したかと思えば、さらなる目標ができて、その目標のために視線を上げて、上を目指している。

その結果、「今日の注目記事」に選ばれたり、フォロワー数もPV数も増えた。味を占めたのか今度はエッセイを仕事にしたいと思うようになって、いまはエッセイを仕事にするために、毎日文章を書き続けている。

エッセイの仕事にはまだ繋がっていないが、エッセイの編集の仕事をできるようになった。でも、それで満足なんかできないし、してやるつもりもない。

独立してライターになったのも、自分の可能性を諦められないからで、いつまでもこの可能性ってやつは自分を諦めさせてくれないものだ。諦めれば楽になるのに、一縷の可能性に縋り続けている。欲は一向に尽きないままだし、これから先も自分の名前で生きる挑戦をやめないのであろう。

もしかしたら自分探しの旅が、まだ終わっていないのかもしれない。一縷の可能性に縋り続けているのがその証拠だ。「何者かになる」から「自分の名前で勝負する」に変わっただけで、生き方そのものはまったく変わっていない。

とはいえ、自分の力量を知っては絶望する。弱い自分じゃなくて、強い自分でいたい。そんな自分を認めてあげることがさらなる飛躍の一歩なのかもしれない。弱さを認め、今のままの自分で勝負できる方法を模索する。自分の名前で生きていくは簡単なことじゃないから、最大限の力を尽くしていこう。

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