流星ひとつを読む。
沢木耕太郎の流星ひとつを読む。
最近本ブーム再燃のなかひさびさのヒット。
知る人ぞ知る、藤圭子さんへのインタビュー。ちょうど藤圭子さんが1979年に引退するあたりのもの。
以下、藤圭子さんはヒッキーこと宇多田ヒカルさんのお母さんレベルの予備知識で書いてます。
冒頭は幼少期のとにかく貧しかった頃の話がつづく。
北海道は旭川、雪降るなか両親は歌の巡業。営業の仕事が急遽はいって食費もついた藤圭子さん子どもたちは納豆売りをして食いつなぐ。
そんな話が続く。そのまま演歌の歌詞の世界。
自分にとって演歌は子どもの頃からテレビでみかけるものだったけど、ほとんど良さがわからなかった。
唯一、石川さゆりさんの津軽海峡冬景色は歌詞が最高で聞いているだけで情景が浮かんできて名曲だなって思っていた。
藤圭子さんのデビューまでの話から、演歌ってウィキペディアで歌謡曲とロックの融合みたいなことがかいてあったけど、黒人の魂の叫びブルースに近い気がする。
極貧のなかパチンコ屋でひろった玉ひとつで大当たりをだし景品ももらったとか、教科書の内容を丸暗記して学校では優等生だったとか、神童プラスアルファなエピソードがおもしろい。
人間追い詰められるとふだんの枠外の能力を発揮できるんじゃないか。
中学生の頃のエピソードで真冬にセーター姿でバス停で待っていると、トラックの運転手さんに何度も乗せてもらい、奥さんのコートまでもらったという話。
デビュー時の藤圭子さんの写真もみて、こんな清純少女がバス停でガクブルしてたら親切したくなるよなと思う。
デビュー前後の話となり、デビューからしばらくは、夢も将来のことも考えてなく、インタビュー時に沢木耕太郎氏から「どんなこと考えていたの?」との質問に、「別に」とエリカ様リプをかえす藤圭子さん。
デビュー前後は何も考えず流されるままに歌を歌い有名になっていく。
一方でデビュー後半から、声の不調やプライベートのことなど、いろいろ考えるようになってからうまくいかなくなっていったという。考えすぎるとうまくいかないってことか。
その頃から死にたいと考えることある、というエピソードが二度ほどでてきて、インタビューから約40年後の一読者としてはちょっとつらい。
あと小さい頃からお母さんっ子で、とにかくお母さんが大好きで、お母さんが自分にとっていちばんのファンだ云々、お母さんについての話が多い。
デビュー後、お母さんと住み始めているが、ウィキペディアで確認するとお母さんは2010年に亡くなっており、藤圭子さんは2013年に亡くなっている。勝手な憶測だけどお母さんはちゃんと見送ったんだなと。
インタビュー全般で、藤圭子さんのまっすぐさ、素直さで溢れていて、反面アラサーとしてみれば早熟な発言もあり、内面のアンバランスさを感じる。
沢木耕太郎氏との会話とのやりとりで、おたがいどこかで惹かれ合っている男女の雰囲気があるのもよい。
藤圭子さんが亡くなったあとこの本が出版されて、話題性にあやかる一面もあっただろうし、当時の藤圭子さんの真っ直ぐさ眩しさを知ってほしいという思いも沢木氏にあったんだとおもう。
藤圭子さんが結婚したのが19歳(お母さんも19歳)、そして離婚、活動期間が10年と、宇多田ヒカルさんもお母さんと同じ道をたどっていて、ミステリー小説のような偶然性があって事実は小説よりも奇なり。
YouTubeで藤圭子さんの曲をきいてさらにびっくり。めちゃくちゃカッコイイ。
流星ひとつ→藤圭子→演歌→レコードと、ディスクユニオンでLPを予約しようとおもう→新宿の女と演歌のライブ盤2枚を買ってしまった。