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11/29「中勘助『銀の匙』を読んで」
一昨日昨日と調子が悪くて、1か月近くのnoteの連続投稿が途絶えてしまった。気を取り直してまたやってきたい。
岩波文庫版の『銀の匙』を読んだ。この本を選んだ理由としては、とにかく岩波文庫が読みたい気分だったというのと、大学受験の予備校の国語の先生が、さりげなく推していたような記憶があったからだ。
岩波文庫の物語を読んだのは結構久しぶりかもしれない。数年前に『ロビンソン・クルーソー』の前編で挫折して以来読んだ記憶がない。今回はあれよりずっと面白くて、最後まですらすらと読み進めることが出来た。
著者の子供時代の自伝小説なのだけど、子供時代に特有の感性がいきいきと描かれていた。和辻哲郎の解説にも書いていたことだけど、自分の子供の時の世界をこれだけ鮮明に表現できるというのは、中々できることではないと思う。
タイトルになっている銀の匙というのは、著者が乳幼児だったころに、離乳食かなにかを食べさせるために使っていた道具で、箪笥の中に眠っていたものを子供時代の著者が発掘した。
特にその後の物語に影響を及ぼさないシーンだったと思うのだけど、それがタイトルになったというのは一体どういう考えだったのだろうか、少し気になる。
さて、子供時代の著者というのは虚弱で憂鬱症で、あまり周りと調和しない子であったようだ。そんな彼を支えていたのは、心優しい彼の伯母であった。
「仏性であった」その伯母は、うまくいやっていけなかった子供時代の著者を無私の心で気遣い、慰め、養育した。その甲斐あってか、小学校の高学年の頃になると、著者は飛躍的に逞しくなり、勉強や喧嘩に優れて校内でのヒエラルキーが向上したようだ。
そんな著者の成長を見えていて、なんだか自分の子供時代と重なるような気持ちもした。僕自身小学校の低学年ぐらいまでは友達もまともに作れず、たぶん弱い子供だったのだけど、団地で友達ができたり野球を始めたりして、学校でも少しずつうまくやっていけるようになった気がしている。もしかしたら、忘れてしまっているけれど僕にもこの物語の『伯母』のような助力者がいたのかもしれない。
そんな子供時代の著者に、馴染みの女の子ができる。二人で一緒に遊びまわり、時に二人で一緒に困難に直面したりしながら、二人はお互いを慕う感情を深めていく。
しかし、彼女の引っ越しによって、突然二人に別れの時が訪れる。その時の著者の切ない気持ちの描写というのが、読んでいてたまらなくなるような気持ちになった。
これもやっぱり、この著者ほど鮮明には覚えていないのだけれど、いつか、どこかで自分も感じたことのある切なさで、この物語によってその時に感じたことが呼び覚まされるような、そんな感じがした。
あるいは、それは僕に限らず、人間の感情にはどこかで普遍的な所があるんじゃないかと、そんなことも考えさせれた。
これまでに見てきたものや聞いたこと、体験したことを、飾り立てたり美化したりせずに、自然に、ありのままに書き残した文章のように感じた。
だからこそ、読者に普遍的に訴える何かが宿っていて、日本文学の古典として読み継がれているんじゃないかと思う。