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グラデーションの世界を、対立で捉えること

グラデーションでしかない世界を、対立で捉えると、わかりやすく、理解しやすい。
でも、実際とは違うように世界を見てしまっていることには、自覚的でありたい。対立かグラデーションかという、これまた対比軸での優位を考えるのではなく、尊い世界をありのままに捉えること。

そんなことを書きたいと思う。

世界を対立で捉えると、わかりやすい

現代文の授業で、英語の読解の授業で、「対比軸を意識して読みなさい。」とか「一般論がAなら、筆者の主張はB」などと、よく言われる。
何かと比較すると、物事はシンプルに見える。

例えば、「ポカリスエット」を説明するときに、「甘くて、スポーツや風邪の時に飲みたくなる、飲料水だ」と言っても、なんとなく伝わる。だが、「アクエリアスに比べると、より甘い感じ」とか、「お茶よりも糖分が高いから〜〜」とか、「人の汗の成分に近いから〜〜」とか、比較対象があると、さらにわかりやすい

また、ある日会社で、『「全力で取り組む」と「目の前の事柄(行務)に向き合う」の違いってなんですか?』と聴かれた。
「全力で取り組む」の反対は「手を抜いてしまう」で、
「目の前の事柄に向き合う」の反対は「自分に向き合う」だと、
それぞれの対比概念を設定してあげると、すんなりと理解された

このように、世の中の概念や事物は、対立で捉えるとわかりやすいと、自分は感じている。

この世界はシンプルか?

では、この世界は対立で捉えられるようなシンプルなものだろうか。
いや、現実の世界はグラデーションでしかないと思う。

確かに、「○と比べると〜〜」は通用しそうだ。
しかし、対立は全ての物事に対して、無限に設定される

Aくんより、足がはやいBさんより、足がはやいCさんより...

さらに世界は、(当然だが笑)「足のはやさ」だけが比較対象ではない。
つまり、Aの観点での比較と、Bの観点での比較と...も無限に設定される。

そんな世界は、対立で捉えられるのだろうか?
もちろん可能ではあるだろう。無限の対立軸に従って、無限の対立関係が構築されるはずである。しかし、それは世界を捉える手段として建設的だろうか。

僕は、グラデーションでしかないこの世界を、対比的に捉えることが残念ではないかと思うのだ。

ありのままの世界を、ありのままに

世界に境界線を引いて、名付けたのは、先人の知恵である。
そのおかげで、私たちは世界をわかりやすく捉え、発信し、他者を理解できる。

だが、最近、私たちは、ありのままの世界や、ありのままの個人にも境界線を引いてはいないだろうか?かけがえのない個人の、多様な特徴を、分類してみたり、他者と比較して捉えてはいないだろうか?そのまま受け入れているだろうか?

僕は、かけがえのない他者を、グラデーションでしかない世界を、対比で捉えてしまっていることに、自覚的になり、ありのまま捉えようとしたいのである。かけがえのない個人を、誰一人取りこぼさない社会を創りたいのである。


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