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【#6インド】チェンナイの人々
チェンナイは都会だが、俺の泊まったエリアはそうでもないらしい。何か食べたいと歩いても、駄菓子屋や日用品店は多いが、座って食べさせてくれる料理店はあまり見かけなかった。
コンビニ、ファストフードチェーン、スーパーもない。食べ物を探すどころか、水を調達するのも苦労した。魚屋の干し魚にはハエがたかっていた。
チェンナイには物乞いが多かった。ヒンドゥー教の寺院はカラフルな門が印象的だ。ただの門ではなく塔のように高く聳えていることから塔門という。
カーパレシュワラ寺院は、シヴァ神を祀ったチェンナイの代表的観光名所だ。豪華で存在感がある。門前には大勢の人がおり、その数に比例して物乞いや客引きがいた。
物乞いは俺が門に近づいて靴を脱ぎ中に入るまで、断っても横に居続けた。
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寺院を出て、別の名所に向かうとき粗末な格好の少女が建物の模型のようなものを売りつけようと「サー」と言い、ずっとついてきた。表情の生気のなさ、年齢に似合わない声の低さに気味が悪くなり、顔もろくに見ることができず逃げ去った。
寺院の物乞いや少女に限らず、インドの物乞いはしつこかった。他国では座って紙コップを置いているだけの物乞いもいる中、一度断っても追いかけてくる。タイでは物乞いに対して同情したが、多くの国を周っているうちに物乞いの存在に慣れてしまっていた。
海岸沿いに位置するチェンナイの名所、マリーナビーチに向かう途中、インドでは珍しいベーカリーがありカレーパンを買った。店の前で食べていると、痩せ細った老婆が物乞いにきた。その表情の切迫した感じ、ギリギリのところからお願いしている様子が今までの物乞いとは違っていた。
ただ、俺は物乞いにお金をあげることが嫌いだった。そもそも日本人は、だれかに現金をそのままあげることはない。結婚式でも祝儀袋に入れて渡すし、誕生日やクリスマスならプレゼントとして渡す。
だから、お金をあげることはどうしても抵抗があった。そこで、美味しかったカレーパンをもうひとつ買ってきて、老婆にあげた。その老婆には、地元民ですら20ルピー(36円程度)ほどあげていた。
また、どの店で食事を取るか迷いながら歩いていると、少年がレストランから飛び出してきて会話したことがあった。出身や滞在期間など話していると、老婆が物乞いにきた。
言葉は発さず「No food.(食べ物がない)」と口に手を持っていく動作を繰り返してきた。チェンナイの物乞いの多さにうんざりしていたこともあり、少年をタミル語の通訳にして物乞いと会話を始めた。
近くに商店があったので食べ物がないなら、「菓子パンを買いますよ」と伝えると、「パンは要らない。お金がほしい」と表情を変えずにはっきりと言われたときは、少年と苦笑した。
旅人と見るや躊躇いもなく近寄ってくる積極性は目を見張るものがある。インドでは高齢の物乞いが目についた。高齢者は敬われる存在、年金をもらってリタイアなり隠居するものと考えていた俺にとって、この歳になってもプライドを捨てて生きている事実に価値観を揺さぶられた。
さらに、インドに着いて驚いたことは、炎天下に路上で毛布一枚敷いて寝ているインド人を多く見たことだ。普段着のまま、多くは裸足で寝ていた。男性だけではなく、同じように寝ている女性も、もちろん老婆もいた。
本当にこの人たちが家を持たず、ろくな荷物を持たずに生きているのか、わからない。しかし俺は、「人間こんな風にゼロの状態でも生きることができるんだな」と衝撃を受けるとともに、妙に気持ちが軽くなったことを覚えている。
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南インド、チェンナイの人々は温かかく好奇心にあふれていた。旅人としては現地の人とかかわることが一番楽しい。名所もいい、美味しい食事もいい。ただ、その国の人としっかりとした会話ができたときの充実感は何よりも勝る。
チェンナイ旧市街の路地裏を歩いているとき、俺は疲れたので座って休憩していた。すると現地の青年たちが話しかけてきた。どこ出身かと聞かれ、日本だと答えると猛烈な勢いで質問が飛んできた。
「日本に行きたい。航空券はいくらかかる」と一人が聞いてきて、それに答えて会話しているうちに、別の青年が割り込んできて、「何の仕事をしているのか」といった話になる。
また、それに答えていると、最初の青年から「日本で働きたい、どうすればいい」と聞かれる。南インドでは主にタミル語が話されていて、英語を話せないという人も多かった。
この青年たちの中には一人だけ英語が少しできるインド人がいて、その人を通訳としながら話していたこともあり、青年たちはもたもたしていると会話を横取りされた。
というのも英語力がゼロというわけではなく少しは言葉は知っているようだったので、青年たちはまず自分で言いたがった。言葉が出てこないで苦戦すると、通訳の青年に任せるが、聞いているうちにまた通訳の青年にかぶせて話し始めたりと、むちゃくちゃだったが見ていて飽きなかった。
また、夜ご飯をビスミという大衆食堂で食べたときのことだ。チャーハンとともにチャイ(ミルクティ)も注文したかったが、チャイがどうしても伝わらない。
店員にチャイと言ってもドリンクと手真似をしても伝わらず途方に暮れたとき、近くに座っていた青年が代わりに訊ねてくれたこともあった。
またサントメ大聖堂に行ったときは、少年にトイレの場所を聞いたらわざわざトイレまで案内してもらった(これまでは場所を聞くと、指を指して案内されることが多かった)。
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パルタサラティ寺院では、お爺さんが「インドへようこそ!」と言ってヒンドゥー教の神について説明してくれたり、青年が目が合うと優しく微笑んでくれたりした。
チェンナイの人々は、人間味があった。普通なら何週間も一緒に過ごしたり、笑い合って打ち解けた後でなければできない自然な交流ができた。
どこに行ってもそこにいる誰かに話しかけることができて、受け入れられるという雰囲気があった。チェンナイでは昼でも夜でも大の大人が三、四人で集まって話すということは珍しくない。
俺が泊まっていた宿は路地に面していた。そこでは20時くらいになると近所のおじさん、おばさんが座って何かを話し込んでいた。
タミル語で何を話しているのか分からなかったが、俺は路上に置いてあるプラスチックのイスに座りその様子を観察するのが好きで、気づけば一時間くらい経っていたこともあった。これがコミュニティなんだなと感じた。
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チェンナイを去る最後の夜、チェンナイを離れがたく感じていることに気づき、自分で驚いた記憶がある。騒々しく、貧しさの残る街だが、外国人に対して率直な関心を持ってくれるし、穏やかで思いやりのある人が多い素敵な街でもあった。
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