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優しい王国の、はだかの王さま

「でも、王さま、はだかだよ。」
 とつぜん、小さな子どもが王さまに向かって言いました。
  ――――「はだかの王さま」大久保ゆう訳(青空文庫より引用)


 優しい、という言葉はいつも私にとって恐れをともなう。「あの人は優しい」、「あいつは嫌な奴だ」そういう言葉は目に見える身近な社会だろうが、見ることさえできない遠くの世界だろうが、変わらず気軽に飛び交っているように思います。私はこの言葉がひどく怖い。

 例えば引用した「はだかの王さま」に出てくる正直者の子どもの台詞は、正直ゆえに口から出た真実です。この真実を伝えた子どもの行動は正しいかもしれませんが、優しいのでしょうか……? すくなくとも私には即座に答えを出せない難問だったりします。

 論と感情がイコールで結べないように、当然、正しさと優しさは別物です。イコールで結ばれる場合もあれば結ばれない場合もあります。これは決して、その子どもの発言が優しくないと言いたいわけではなく、優しい優しくない、という言葉は簡単に誰かが定義できる問題ではないのです。

 指摘された王様は子どもに対してその後、「あの子は優しい」と思うかもしれないし、あるいは「あの子は嫌な子だ」と感じるかもしれません。

 誰かにとっての〈優しい〉は誰かにとっての〈優しくない〉になります。

「何、当たり前のこと言ってんだ」と思うひともいるでしょう。そうですよね。十人十色。受け取り方が人それぞれなのは、当たり前のことです。

 でもときおり、そのことを忘れてしまっているのでは、と自覚してひどく感情が乱れてしまう時があります。


 優しい、という言葉が気軽に使われることをひどく恐れながら、自身も気軽に使い始めているその鈍感さに気付いて、怖くなる……。


 誰も傷付けない〈優しい〉言葉など存在しない。言葉を書く以上、その言葉はきっとどこかで誰かを傷付けている。どれだけ、という数の多寡は問題ではなく、問題なのはひとりでもいる、という事実です。

 言葉を書く、言葉によって作品を創る、という行為が気軽に行えることを尊い、と思う一方で、外へと言葉を向けることは、とても傲慢な行為だとも感じています。


 色々な考え方があるわけですから、もちろん、この考えを一般論とするつもりはありません。ただ、すくなくとも私は、どんな言葉であれ人を傷付ける可能性がある、と感じていながら、それでもなお言葉を、小説を、(時には)自分の考えを、外へと向ける道を選んだわけですから、どうしようもなく傲慢で、許されない人間なのかもしれません。


 もしかしたら〈優しい王国の、はだかの王さま〉は私かもしれません。


 誰かを傷付けるつもりのなかった言葉に、優しさの衣がないことを強く指摘される日が訪れるかもしれません。


 それでも私は書いていくことを選んだ以上、その事実を恐れて書かなくなるのではなく、自分が〈優しい王国の、はだかの王さま〉である可能性を忘れないようにしながら、それでも書いていこう、と……。

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