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自由の国・ニッポン

 誰にでも夢を掴むチャンスがある国・アメリカ。自由な権利と平等な機会を拠りどころに“成功の夢”を抱く精神こそ、アメリカ国民が建国以来ながく信奉してきたアメリカン・ドリームだ。桁違いの成功者が生まれるアメリカ。日本から見ると羨ましく感じるだろうか。ともあれ事実、個人も法人も規格外のビッグになれるのが自由の国・アメリカである。先日、そんなアメリカの地にて世界スポーツ界の史上最高契約金を決めたのは日本人・大谷翔平氏だった。

自由と平等こそがアメリカン・ドリームのカギ?

 自由と平等こそがアメリカン・ドリームのカギ? それは間違いだろう。今でこそ人種や生まれ育った環境を背景とした差別意識を公に振りかざすことはなくなったが、かつてのアメリカにはそれがあった。しかも強烈なほどに存在した。そのような状況では、肌の色や思想の違いだけでスタートラインにも立てなかった。アイデアを聞いてもらうために、パフォーマンスを見てもらうために血の滲むような努力と結果の積み上げが求められたはずだ。そこで実力を認められ、ようやく勝負の世界の仲間入りを許される。

 翻って日本。かつては日本にも階級・身分格差が存在したが、単一民族ゆえにDNAに刻まれるほどの差別意識はなく、戦後はおそらく世界で最も自由で平等な国の一つになったのではないだろうか。そして現在はその自由・平等主義が跋扈し、努力もなしに結果の格差を批判する国になり果てたように思える。アメリカン・ドリームとは真逆の社会主義国家となった日本。今後どちらが世界をリードしていくかは考えるまでもない。

自由と平等の意味

 自由の国・ニッポンは、自由の意味をはき違えている。自由とは「自由に選択する権利」のことだ。選択は自ら行うものであり、当然その結果には責任が伴う。自由に権利主張しておしまい、ではなく、選択から始まるのだ。
平等の国・ニッポンは、機会の平等ではなく“結果の平等”にこだわりすぎる。本来、結果は不平等なものである。そこに至るプロセスを磨いたかどうか、それが結果を決めるからだ。しかしながら努力を鑑みずに結果格差に不平不満を漏らし、またそれに同調していたら、更には結果を強制的に平等にしたら今後誰が努力などするものか。一等賞のない“かけっこ”がまさにそれだ。鎖国するならまだしも、グローバルに開かれた社会では通用しない。


 250年前に独立し自由を勝ち取ったアメリカ。誰もが自由かつ平等に努力をし、一握りの成功者に称賛を送り、次こそは自分の番だと励む。認めさせるための自己PRを軽んじず、勝つための努力をする。

 新しいニッポンになってから150年。そろそろ自由と平等を言い訳の盾にするのではなく、未来を切り開くための武器として、前のみを向いて歩みを始めたい。強者になったあかつきには、自らの意思をもって努力する弱者を支えればよい。これだけの資産と能力を持った日本だ、本気を出せば三流国家に甘んじることなどない。

 自分で未来を勝ち取る努力をしよう。どうせ一度きりの人生だ。後悔はしたくない。

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