Facebookをやらなくなったのも、オードリーが好きなのも、六本木のクラブが好きじゃないに、全部つながっているって話。
おめでとうオードリー。ありがとうオードリー。
本日は、オードリーDAYだ。
たぶん、オードリーのコンテンツはほぼ全て見て聴いている。元旦の経済番組まで見たんだから。若さま、この歳でもチャレンジするよね!
年甲斐もなく、そして自分よりも年下であるはずのオードリーに心が安定する日常をもらっている。だから、ありがとう、オードリー。
同時に、朝、起き抜けに頭の中で言語化できた「あぁ、俺、若い頃に無理やり行ってた六本木のクラブって本当に馴染めなかったんだな」ってこと。今日はそんな話。
今日は、「そういうこと」について書いてみようと思う。
祭りは中で楽しむんじゃなくて眺めているのが好きなんだよね。
朝から、東京ドームはオードリーファンで満員だろう。そしてその輪に私は入らない。
渋谷のライブビューイングだからってのもあるけど、きっとドームのチケットが当たっていてもギリギリに入ると思う。そしてスカジャンを着て、ロンTを仕込んで映画館には行くけど、ラスタカラーのリストバンドは多分しない、いや出来ない。
でも、Xの投稿は、色んな知らない人の背中を押すように「いいね」した。
ドームライブ前の収録ラジオを夜中に聴きながら、スマホゲームでもやるかのように100回くらいはいいねを押した。
嫌いなんじゃなくて、苦手なんだよね。好きなんだけどどうしたらいいか分からない。
祭りの中にいるのが苦手だ。パーティの中にいるのも苦手。どうしたらいいのか分からない。人前で一年の半分以上を話ししている自分がそういうことを言うとびっくりされることがある。でもね、前にいるときは役割がある。その役割がないとき、なぜ私がここにいるのか、いていいのかが分からなくなる。雰囲気も、空気感も、好きなんだけど、本当に疲れる。
前日の心境を吐露した若林さんの note を見て、有料だから中身はここに書かないけど、そうだよね、って頷く。
オードリー若林さんの有料note:
「それでいいんだよな」の安心をくれる男、若林の稀有な存在感と支持。
この頷き、「俺はそれでいいんだよな」を体現していて、殴り合いだったはずの昭和の芸能界を奇跡のように生き延びてきたこのこっち側芸人に心を掴まれるのだ。そして、その横に立ち続けた美意識と葛藤しない男、春日との絆にもグッとくるのである。
今の世の中には、そういうアンバランスさを人それぞれ持っていて。全員が憧れる太陽のようなスーパースターは存在しなくて、そして今までだったら日陰を歩いていた人たちが生きづらくとも道を歩ける時代だ。
大袈裟かもしれないけどそう言う人たちが道を歩けるようにした一人が、若林さんなんじゃないかと思う。
二度目の脱皮は自分の中の若林を遠ざける脱皮だったと今朝気づいた
私個人は、15歳の高校一年で人格を変えた。大袈裟でもなんでも無く、死んでもいいかもな、と思ったからだ。これではよくないと思った。人生が灰色に見えて生きる意味を考えた。だから変えた。
そして、21-22歳でもう一度、人格を変えた。勝つために、変えた。
一度目の脱皮は、「卑屈で負け癖のついた、周りから見ても優等生のいい子だけど弱くてネガティブな子」を脱しようと決意した。脱皮しても意識は残ったけど、それは環境と習慣で消し去っていく努力をした。
二度目の脱皮は、若林さんにかぶる。私は芸能界では無く、起業やビジネスを創る、という世界でもがいていた。
2000年当時、まだイケイケな奴らがビジネスを支配してた(多分、いまの意思決定層がこの残党だから経済もビジネスもうまくいかないんだと本気で思っている。)
直面したのは、根っからのあっち側。クラブに行けば飲んでは踊り、100人の会場で仲間を見つけて、つながり、(失礼をごめん)底の浅い、意味などない会話で2時間盛り上がれる連中が王道を作っている世界に愕然としていたからだった。
「これでは、勝てない。」そう思った。だから、飲み会に行ってもどこか馴染めない自分、名刺交換に全く意味を感じない自分、とにかく勝てばいいんだって倫理も道徳もへったくれもない王者に媚びへつらう奴らに反吐が出そうになりながらもニコニコと一緒にいる自分、そういう自分を押し殺して、あっち側のフレーバーをかけた。
でも私は、若林さんになりきれないで中途半端だったんだ、二度目の脱皮は、環境と習慣では、なくならない自分のコアのこっち側を逆に無くしてはいけないと思って変えられなかったのか、はたまた変えたくても変えられなかったのか。とにかくポジションを定められないでいた。
だからこそ、若林さんの存在に安堵するのである。ちょっと上の歳だから、芸能界にいたら、若林さんに真っ先に批判されたかもしれない「こっち側のくせに、中途半端にあっちの所作で生き残ってんじゃねーよ」って。
今のように、多様な生き方や見せ方で生きられることを知らなかった。こっち側が堂々と歩ける世界じゃなかった。
ネットフリックスはなかったし、回線はISDNで「ピーヒャラヒャラ」いってた。画像が途中で止まる。就職活動は紙で履歴書を書いて送っていた。日進月歩でウェブは革新していっていたけど、そこには若かりし私たちの安堵できる「若林」はいなかった。
センスで生きていく人たちは偉人となって本を出す。それはもはや俺たちの延長では無く、伝説となった別の世界の人。今ではその人たちが普通の人たちからスタートして自分につながっているということがわかる。でも、当時の何者でもない自分では、その延長にどうやっても重ねられる人がいなかった。
だからこそ若林さんは貴重なのだ。上にそういう人がいない中で自分で位置取りを決めて進んできたから。M-1の衝撃よりも、その後に積み重ねた若林さんの軌跡の方がグッとくる。
やれること、やれないこと、若林さんに呼応するようだけど、私も40歳を超えた頃から本当にたくさん考えるようになった。
やれないことをやらないわけじゃないけど、やれないことにぶつかり続けた結果、やれることでお仕事をいただいている、という感覚は本当にある。
多分、自分のキャリアの中で、デンマークの会社の日本支社長も、大手SI企業のシンクタンクでデザインコンサル部門を作って形にしたのも、震災が起きて無我夢中で走り抜けたのも、全てやれることを先鋭化する自分なりの空間を意識した先にあるものだったと思う。
そしてこれを思いっきり誇示できない自分がいる。自分のことを自分で誇示できているあっち側の人たちに対して、「お前なんかと一緒じゃねーよ」と思いたい自分もいるんだろう。
自然とFacebookはやらなくなった。
10代と話しているとよく、TikTokは陽キャのアプリだ、っていってる人がたくさんいる。俺が10代でもそう言うはずだ。そして、40代以降のSNSではFacebookがそれにあたる。なんか、当時、王道を歩んでいた人たちが、景気が悪くなり、本を出すほどの影響力ではないので、こぢんまりと自分の仲間たちにドヤり合戦をしているようにしか見えない。
もちろん、フォローでもなんでもなく、近況報告、進捗、進展、告知、などありがたいお知らせや元気の便りとして楽しんでいる側面はある。そして、冒頭に書いているように、祭りが嫌いなんじゃないんだ。苦手なんだよ。だから眺めているだけでいい。いいね、は押すから。
でも、こっち側の要素が残りすぎて、何千人かいるフォロワー一人一人をチェックし、「かつての自分が繋がった人で、この人にいいねって言ってもらいたいのか?」ということを考えながら、数百人単位で、自分の発信が届かないようにチェックを外してみたりする。
悩みながら前に進む、若林さんに続くように
いまさら、中途半端な自分を美化しても、言い訳してもしょうがない。でも時代と環境が勝手に方向を変えた。「そういうこと」をわざわざ正当化して言い訳しなくてよい時代になった。
私だからできることがある。そういうあっち側じゃない人たちの起業支援や事業推進、普通にしている人たちの新しいチャレンジ、見栄と名誉と人気集めじゃない人たちの集い。
今日、私は、渋谷でライブビューイングでみる。ちょどいいじゃないか。私はオードリーが生でみたい、という偶像の対象としてみているのではない。20年前に、何者でもなかった若造の私、きっとむつみ荘でもがいていた当時の若林くんと同じ立場で、今の若林さんの生き様、を見ている。それに寄り添った春日さんを見ている。
行き証人として、伝説を見に行ってやろうじゃないか。