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【決戦】感情と論理
10月も終わりかけていた。開け放った窓から入るさわやかに澄み切った秋の風が、ランプのぬるい光に照らされている。僕はベッドにうつ伏せになって、スマホに文字を打ち込む。
こんなことを書いても、僕の部屋の情景は誰にも想像できない。本当は机の上にめちゃくちゃに本や漫画が積み重なっていて、パソコンは開いたままで、クローゼットには服が吊るされていて、枕元にはいろはすを置いていて、その結露でシーツは少し湿っている。どれだけ丁寧に情景を記述しても、僕のみている景色を想像することはほとんど不可能だ。何かを伝えようとして言葉を媒体とした瞬間に、山のように取りこぼしてしまう。
実態があるものであれば、動画や写真で多くの情報を伝えることができるが、実態のない感情は言葉によってしか伝えることができず、完璧な文章を書かなければどうしたって僕だけのものだ。
同じものを観ても、聞いても、体験しても、僕とあなたは全く同じことを感じることはできないし、感じたことを言葉で伝えようとしても、言葉は感情の全てをカバーしていないから、感じたことすべてを共有することができない、逆に、あなたの感情もあなただけのもので、僕はあなたが何を感じているかを理解しきることはできない。あなたが喜んでいる時に僕も喜びたいが、まったく同じように嬉しくなることは不可能だ。
感情はもっとも孤独であり、自由であるといえる。僕以外の誰もが僕の感情を知らないから、感情を偽って言葉にすることも、隠すこともできる。
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言葉は感情や情景を伝えるために使われ、論理に支えられている。
論理に支えられていなければ、理路整然とした説明をすることはできないからだ。論理は人と何かを共有するための道具だから、自分の心の中にだけある混沌や曖昧さを拾い上げることはできないことは当然だとも言える。
論理が全てを作りだす。
人と何かを共有することが前提となっている今の世界では、論理が最強だ。AIは勝ち目がないほどすごいスピードで、説明がつく全てのものごとに説明をもたらし、我々は納得させられてきた。麻雀でもAIは活躍している。その牌姿であれば、7sを切ると受け入れ枚数も局収支も最大になり、それがほとんどの場合正解になる。もたらされた正解は崇められ、それ以外は許されない。
直感やなんとくなく、という理由は弱く、納得も安心もできないから、僕たちは何かを選んだ後で論理的な理由を作り出し、不安を解消しようとする。
しかし、作り上げられたものは全て嘘だと僕は言いたい。僕があなたのことを好きだと言っても、理由がなければ納得も安心もしてもらえないから理由を探すが、それは嘘だ。本当はあなたが好きだという感情に論理的な理由は必要がない。
論理が組み立てられて導き出された正解を信じるがあまり、感情すらも論理によって導き出されるものだと錯覚する。
僕はあなたの見た目や性格が好きだからあなたが好きだと思うが、それは後付けにすぎず、理由を求めること自体が欺瞞に感じる。
感情が全てを作り出していた。
論理すらも感情を伝えるということに従事していて、我々は不完全で不自由な枠組みを目一杯に使って、自分の思いを伝えようとする。
世界は感情で満ち溢れていた。僕はこの長い文章を論理に支えられて書いたが、もちろんそれよりも先にあなたに思いを伝えたいという感情に突き動かされて書いた。
もう11月になっていた。僕は高いところから街を眺めて、マンションの部屋ごとに光が灯っていることに気づく。そのひとつひとつの光に感情があり、美しくきらめいている。感情の全てを表す完璧な文章を書くまで不安な僕のために、あなたのために、論理は最強であり続けなくてはならない。