「初秋の夕」 / 散文
久しぶりに寺の周りを歩む。
山際と言うのか、こんもりとした数々の常緑樹たちを背負うようにして広がる境内。
その仁王門まで辿り着いた時、見上げた向こう側に入道雲のように盛り上がる緑の息遣いが感じられたものである。
そして、安堵にも似た一息をつく。
そこに緑の塊が在るという事、その躍動感のある樹々の息遣いに、何故か少し救われたような気がしたのだ。
また樹々たちはこちらを認識しているようで、暫くぶりの知人が沢山迎えてくれたような気にもなった。
そのような諸々を感じながら、空にあらわれた見えない杓子で、緑のエッセンス-シャルトリューズ・ヴェールのような-を注がれたような気がしたのであった。
手水舎の水は普段より僅かにひやりと感じられたが、暑さは控えめな夕も間近な時だったので、その地下水の肌触りが印象的だった。
相棒の黒曜石も清めておくことにしよう。
本堂に続く石畳は閑散として、水辺の亀も欠伸に飽いたように、寝たふりでもしていそうな掴みどころのない気配が辺りに漂っていた。
失敬と一寸思いつつ、本堂に向かう道を折れ一番に向かうのが贔屓の弁天さんで、久しぶりに寄りましたと挨拶を済ませる。
以前寄った際、左側の狛犬の腹にいた天女は留守で、そのせいか静まり返った湖のような気配だった。
草花の様子見がてら境内を流すのは、この寺を訪れる度の気侭な行いで。
その足でふらりと毘沙門天堂へ向かう事にして、こちらはまた弁財天より久方振りであった。
石段を登った先の堂に辿り着き、硝子戸の奥に控える黒々とした仏像に手を合わせる。
無沙汰を詫びつつも、いつもと変わらず気の抜けた調子で挨拶をした。
ー 泰山木の花びらのなめらかさが触れたような、ふわりと円を描く暖かな風に包まれたような ー
(なに、気安くしておればよい)
そう、間髪入れず届いた毘沙門天の「言葉」は柔らかな疾風のようで、思わずぱちぱちと瞬きをしてその隆とした姿を見返した。
「気安く」については、無沙汰を詫びた自分に対し「気にするな」と言っているのではないと反射的に理解した。
意訳すれば、「難しくせんと、心穏やかに、楽にしていなさい」というところだろうか。
そうしてその「言葉」の意味に心を暖め、硝子戸の向こう側にニイ、と一つ置き土産の笑みを放ちその場を後にして。
お陰様、という一言を心に浮かべながら足取りも行きより軽やかに、寺の通用門から外の通りへと出たのであった。
結局本堂には寄らず終いで、まぁそういうのもよいだろう。
湿り気を帯びた風を浴びながら、池の側の広場を横断する。
初めてこの広場に立った時、やけに水の気配を感じたものだが、後に広場は池の半分を埋め立てて作られたものと知り、成程なと思ったものだ。
風に水面を揺らせている池の、その不可視なる半分は土の中で息衝いている。
陸のような顔を数十年も見せながら、池はやはり池、水なのであろう。
液体や気体、個体と柔軟に姿を変える水が、どの姿をとっても水であるように、本質とはそのように揺るがず、また自在なのかも知れない。
人は大抵、物事を難しくしがちだと感じる。
また物事自体をどの辺りから眺めるかにより、視野も自ずから変化を見せてくるもので、例えば「真剣と深刻は違う」という意味も腑に落ちたりそうでなかったりするのだろう。
そんな風に思う。
また人は、一点で対象を判断してしまいがちでもあろう。
何かをした、していない、しなかった...
何かを言った、言わなかった、どちらでもない...
何かができる、できない、しない...
何かを知っている、知らない、興味がない...
何かを持っている、持っていない、持たない...
良いと悪い、賢いと愚か、強いと弱い...
エトセトラ...エトセトラ...
それらの視点では本質が見つめられる事はなく、気体にも液体にもなれない窮屈さを感じる。
しかし自分も例に漏れず矛盾という靴を履き、ついそのようにして何か審判めいた事をして暮らしているのだ。
花を見る。
美しい。
その美しさは、花のなかから溢れる揺るぎない事実であり、それこそがその花の姿、本質なのであろうか。
花たちは、心安くしている。
人のように体に余計な力を入れてはいないだろうし、そう思えば、毘沙門天の言葉は「花のように在れよ」と訳することも可能だと思うのだ。
またこれらの「言葉」は受け取る側の状況により、その受け取り方も変化するであろうし、そう思えばやはり心や精神の身軽さ、柔軟性は保ちたいと思うのであった。
まだ始まりを見せたばかりのこの秋は、それでも物思う場面も幾つか出来し、試験管の溶液の中で沈んだり浮いたりを繰り返す、根無し草的な何らかの成分になったかのような気分である。
堪えたのは、長雨が明けた後に様子見に訪れた気に入りの野で。
辿り着いた先で目に映るのは、広場の奥に佇む堰堤から溢れた水により、下草もろとも植物の全てが流された痕だった。
-何も無かった。
胸を楔で突かれたような気になったが、それでもまたいつか緑は地を覆うのだろう。
それぞれの惑星がそれぞれの速度で、それぞれの円を描いて周回しているように。
またいつか、熟れた果実のように豊かな陽光を浴びて育ち、野花は風に揺れて笑うのだろう。
そのような事を思いながら、初秋の夕に池の辺りを歩んでいた。
陽の光にきらめく池、そして地中に眠るもう半分が、数十年経ってなお呼応している。
水の気配が溢れる広場で、湿り気を帯びた風が草を揺らしていた。
-2021.9.9 重陽の節句によせて