太宰治『正義と微笑』(『パンドラの匣』収録)

太宰治の『正義と微笑』を読んだので感想を書く。
主人公の日記を読んでいく形式である。主人公は、現代の場合と仮定してみると、高校を出ようとしている所であり、東大?を受験するも落ち立教?に進学するが、俳優になろうとして劇団の入団試験を受け、合格しその道を歩み始めると言う内容。帯によれば、実際の友の日記を参考にしているようで、であればあのような緻密な心理描写にも納得がいった。

主人公は、あの、青年となる前の(今俺は自分を青年と思っているが、)今となってはどうでもいいと思えるような葛藤を抱え悩んでいる様子である。この辺りは非常に共感できた。何がしたいのかよくわからず、そういった目指す先を見据えなければと思い日々の享楽に明け暮れている周囲の同級生を嗤い、そのくせ自分の決心には行動が追いつかず、そこにまた自己嫌悪がある(しかしその自己嫌悪はついぞ行動には結びつかない)。俺も大学に入りたてのとき、特に1回生の間、同じような心理状態だったことを覚えている。何かがしたいという漠然としたエネルギーのようなものはあったし、それを発散させるようなサークルにも入っていた。そう、俺の場合主人公の芹沢進と違うのは、彼の周囲に対する見下しは本当に見下しているのに対し、俺自身は見下しつつも迎合していたということだ。その後に、すぐ虚しさを感じることは共通している、ちょうど一昨日読んだ深い河の成瀬のように。
こんなにカッコよくは生きられなかったね。だから、なぜられたらすぐ尻尾を振っていた。進も、試験や兄貴にちょっと褒められたり、ナメていた立教大に合格したりしてすぐに有頂天になるきらいがあるが、これはもしかしたら誰でもそうなのかな。
そんな進も、前半では自意識ばかりが先行しこの時期に独特な自己中心的な世界を無自覚に展開していて、これも自分と重なった。松村に、お前は誰かに論破されないと言うがそもそも他人の意見を聞く姿勢がないのだと喝破されたことを思い出した。今はそうでもなくなってきていると思う。まあ相変わらず上司にも、人に自分がどう見えているかを考えようと言われるけどね。そこに気づくかどうかって、結構誰の人生にも共通する成長のステップであるような気がする。誰かに言われてま」そうだねとなるのではなく、自分で実感を持って気付けるかどうか。

全く苦言ではないけれど、主人公の御都合主義というのはやはりある気がした。2/600という試験を突破できる才能というふうにえがかれていたけれど。まあそうしないと小説として成り立たせられなかったのかもしれないし、実際にモデルとなった人物がそういう類の人だったのかもしれないけど。今、俺は京都の喫茶店に就職したいと思っているけれど、この本を読むと、自分にこれができるだろうか、進の求めた道を自分も歩めるだろうか、と思わずにはいられない。
けど、俺にも進のようなある種の厚顔さを伴った勇気(俺の場合は、その欠片?)があるから、遥々京都までメールしたのかもしれない。コロナのせいでどうなるかわからないけれど、人生が手遅れにならないうちになんとか結実させたいものだ。進も、あれだけ熱望していた俳優堂に入ってから、少ない描写の中でキツイキツイと言っている。それも、怖い。怖さに対するリアリティがきっとかけているだろうというのが怖い。だからといってどうにかしようもなく、とにかく早く飛び込んでしまいたいというのがある。オオヤさんに、根性でやるンだよと言われたのがだいぶ心に残っている。根性でやるのだ。好きなことなのであれば、根性でできる気がしてはいる。さてどうなるか。
今、ちょうどメールの返事が来なくなった所である。さて…

話がだいぶ逸れた。
主人公の、この時期に特有の過剰な自意識!それに辟易はしないけれど、あぁこういう風だったよね、の斜めに見ていたところから、彼が自分で行動を起こし、人生を始めていく姿は、やはりいいなあと思う。俺もそうしたい。
またしても読むべきタイミングで読むべき本に出会ったと思う。

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