①書くことについて語る

書くことについて。

今回、書いてみる”書くこと”とは、「文章を書くこと」ではなはく、「筆記用具を使用して、紙に文字を書く動作のこと」である。

てか、、”書くこと”という表現にも、複数の意味合いが含まれている事にはじめて気づいた。


僕は、おそらく書くことが好きである。鉛筆や筆ペンを使った動作としての書くことだ。

小学生や中学生の時は、授業中に、ノートや机に何かしらの文字を書いていた。自分の名前や友達の名前、好きな子の名前、あこがれている人の名前など、とにかく書いていた。

かといって、特別習字の時間が好きだった記憶はない(高校では選択科目で書写をとっていた)。


でも大人になるにつれて、書いて遊んでいたものがだんだんと、綺麗な文字を書くことにこだわるようになってきた。もちろん自分が綺麗な文字を書いて、自分に酔うことがもあるが、他人の文字を見て、綺麗だなと思うと同時に、嫉妬らしき苦思い心情が出てくるようになった。あまり上手ではない文字をみて、下手だなあと、少し見下したような目線で見るようになる。それが、文字も綺麗に書けへんとか自分の文字に気つかえへん、しょうもない人間やなあ、ととんでもない人物批判にまで至ることもあった。一方で、自分が書くことに関しても、なぜか猛烈なこだわりを感じるようになった。綺麗に書かければいけない、この文字を見る人に下手な字やな、と思われたら、雑魚に思われる、みたいなことを勝手に感じて、無駄に力が入って、下手な字になって、勝手に自分に幻滅するというループがあった。


この、過剰なこだわりを持ってしまうというのは、書くことに限らない。細かい部分まで書き出すと、いくらでも出てきそうな気がするので、今日は書くことについてのみ少し考えてみたい。


ずっとこの感じ嫌やな、とも思いつつ、なかなかそのループから抜け出すことは難しかった。もしかすると、今もそのループの中にいるのかもしれない。


この”手を使って文字を書く”という動作は、その時の心情や状態をなかなか如実に表すものだと思う。
(今まさにキーボードを使って文字を書いているのだが、この筆記用具使用するか否か、の違いをもう少しうまく言葉にしたいが、いい表現が思いつかず、もどかしい。手を使って書くこと、という表現だと、スマホやパソコンで文字を書くこともその内に入るやろうし、筆記用具を使用して書くこと、というとなんか回りくどくてうっとうしい感じがする。)


特に筆跡学を信じているとかそういう話ではないのだが、その書いているという行為の最中の心の状態が反映される気がする。これは無意識のうちに。スピーチの際に、緊張すれば声が震えてしまう、みたいなことと同じように。

もし、書かれた文字から、筆者の何かを読み取ろうとするのであれば、筆跡学がいうような、その書かれた文字そのものからから、人の性格や考えていることがわかることはないとは思う。でも、その人が普段書いている文字とその書かれた文字そのものを比べた時に、スラスラ感というか、力が抜けてスーッと書かれている感がなければ、なにか平常心とは違う心の状態で書いたのだな、と推測できるかもしれない。恐怖、悲しみ、喜び、嬉しさなどどのような心情かまではわからないが、その心の機微のようなものを感じ取れる気がする。これは、キーボードによって書かれた文字や、写真では伝わってこないものすごく微妙なものだと思う。デジタルとアナログの違いと言ってもいいとおもう。


ここにきて、何が言いたいかもはやわからんけど、まだ書く。


なんでこんなことを思って考えたのかというと、てかそもそも、もっと綺麗にスラーっと文字をかけるようになりたいとは、ずっと小さいころから思っていた。そこまで自分の字が汚いとは思わないが、変に緊張したり、雑念が入ったときに、乱れることがよくある。クレジットカードの署名するときとか。なんかイップスみたいなもんなのかとも思えてきた。


長年心の中にモヤモヤと居ついていたこのどうでもいい問いをクリア思い出すきっかけとなったのは、1月に元彼女と旅行に行った時だった。ホテルのチェックインをするとき、その子が名前を書いたのだが、スッラ―――とペンを滑らすように名前を書いていて、あ、なんか美しいなと感じた時だった。その文字を見て、決して自分が思ってた、綺麗とか上手とかいったものさしで測れるものではなく、単になんか美しいなという感じがした。何がそう思わせるんかな、と漠然と考えた。


文字を見た時の語感?(意味性を排除して見た時の文字の感じはなんていえばいいんや?)がめちゃくちゃ良かった。与えられる印象みたいなもの。実際に、ホテルのフロントマンの男の子も「綺麗な文字ですね。」っておっしゃていた。


でその謎が昨日少しわかったかもしれない。

おそらく、パッと見た時の全体のバランスがいいんやろうな、みたいな感じでは思っていたけど、何がそうさせるのかはよくわかっていなかった。バランスを整えようと意識しながら書くと、力が入って、乱れてしまったり、時間がかかってしまうことがあった。また思い出したけど、その子と付き合う前に行った、京都のお寺での写経の時もそんな感じやった。スラ――と書いていく元彼女に対して、僕は一文字一文字を丁寧に綺麗に書くことにこだわっていた。僕が半分くらいのところで、その子は書き終わり、「なんやめちゃめちゃ早いやん。あんまり綺麗じゃないんやろな。てかはよ書き終えな。」と思って、書き終えた後お互いのみたら、「別に上手下手とかなんかよくわからんけど、そこそこ上手くて整ってて綺麗やな、俺こんだけ時間かけて同じ程度か。」と思った記憶がある。早く書くこと、ゆっくり書くことといった書く速さは特に問題ではないと思っていたとはいえ、なにか釈然としない、なんやこの差はみたいなんを思った。もっと根本的なところできっとなんか違いがあるんやと思った。


また話が脱線してしまった。

で最近、松尾芭蕉の奥の細道を紙に筆ペンで書きなぐっていた。4月くらいから自分の身体について考えるようになって、いろんな本を読んだり、動きしてきた中でのひとつの遊びだった。他にもいろいろ身体について考えていて仮説のようなものが出てきたりしているので、書きたくなったら書く。なぜ身体にについて考えるようになったのかというのもまたいつかの機会に書きたいなと思ってる。


なんか疲れてきたので、今日はここまでにする。

ぐだぐだやし、話よくわからんことなってるけど、ええか。

とりあえず思い浮かんだことを書くということをやっている。

明日続きを書きたかったら書く。違うトピックになるかも。







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