見出し画像

記憶の泡沫

朝起きる。

眠い目を擦りながら、

シャワーを浴びて着替えをして弁当を詰める。

自転車を漕いでいつもの道を通り抜け、

電車に乗って車窓から移り変わる街並みを見送る。


職場で見る窓辺の光。

仕事場へ移動する道中。

影の伸びが季節の巡りを教えてくれる。


仕事を終える。

帰宅する。

着替えて座椅子に座って、

そのまま床に溶け込むように沈み寝落ちる。


安らかな黒に包まれて、

頭からいくつかの泡沫が、

私の手の届かないところに飛んでいく。


記憶は泡沫のようなものだ。

その泡沫は意識の有無に関係なく日々たくさん生み出され、

我々は見えるものをできる限り抱えておこうと手を伸ばしている。

泡沫たちは勝手に浮かび上がっていこうとする。

気付いて慌てて手を伸ばしても、

ちょっと雑に触れると弾けて消えてゆく。

我々は出来の良いものや見えているものに気を取られ、

出来損なったものや無意識で作られたものが飛んでいっても、

気付きもせず忘れていく。



何の変哲もない毎日の記憶も心を引き寄せられたあの景色も、

いつかどこかで泡沫のように空に昇って消えてしまう。

現在から130日前の2時間後に

自分が何をして、何を見て、何を思っていたか、その全てなんて覚えていない。

何もしてなかったわけがないのに。

毎日の積み重ねを経て今日の私が生きているが、

一体いくつの記憶が私の手から離れたのだろうか。

気付くことすらできなかったのだろうか。



取り零してきただろう泡沫も掬いたいと願って、

私は空に目を凝らし、今日も手を伸ばしている。



----------


記憶とは曖昧なもので、時が過ぎれば脚色されて美しい過去の栄光になることもあれば、嫌悪を感じた苦く憎いトラウマになることもあります。他の人が鮮烈に覚えていることが、自分にとっては大したことはないようなこともあります。
その一方で、誰の記憶からも忘却の彼方に消えてしまって思い出すことができない瞬間もあり、人間の記憶の大半は消えてしまうものでしょう。

「記憶の泡沫」は、誰もが忘れてしまうであろう日常の記憶の曖昧さ、記憶同士の緩やかな繋がり、そしてそれらの忘れてしまう記憶の欠片の美しさを表現したいと思って撮り溜めた作品群です。
期限切れ・現行フィルム・スキャナーを使い、いつ撮った写真か分からないよう曖昧に。撮影範囲は自分の通勤・生活範囲とし、誰もが見たことがある普遍的な景色に。特別な時じゃない時間に特別な瞬間があるのではないか。

2枚一組の写真。
光の当たり方が似ているもの、構図の共通点、その被写体が内包している意味、…。
その緩やかな繋がりが、かすみがかった記憶を少しだけ晴らし、呼び水のように思い起こすきっかけになるように感じます。

目が見えて体が動く間、記憶という写真をずっと残していきたい。


展示レイアウト

【おまけ】

昨年10月に写真展で展示をしました。

小さいものほど瑣末で、大きいものほど印象的な出来事。
上に飛んでいくものは抽象的で手が届きにくく、下に滞留するものは具体的な体験や前後の物語が強い記憶。

写真の色々な見方を楽しんでいただければ幸いです。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集