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こんなはずじゃなかった

 (今でこそ、自分のキャパシティと向き合い、使命と夢を追いかけて生きていますが)自分の限界に気付いた23歳の私に待っていたのは、辛く苦しい日々でした。

長野 居場所を失う

「昨日まで会社に行っていたのに、今日からはもう行かなくていい」

 この病を経験したことがない皆さんからは、もしかすると羨ましがられるかもしれませんが、私は「こんなはずじゃなかった」と自分を責め続け、とにかく罪悪感でいっぱいでした。
「自分は弱い人間だ」「もっと怒られることに慣れておけば良かった」「まだ試用期間も終わっていないのに」と、自分が感じている欠点がどんどん溢れてきたのです。さらに、「(一緒にやってきた)皆さんに申し訳ない」という気持ちが何よりも強く、「自分が過酷な職場から逃げたと思われているのではないか」という不安にも襲われました。
当時、介護事務は私を含めた3人でなんとかやりくりをしている状況でした。「これから体制を整えていこう」と話していた矢先、私が倒れてしまったのです。

居場所を失った男が味わった”負の連鎖

 そんな背景が、私をさらに悪循環へと陥れることになります。医師からは「この1カ月は仕事を忘れて休むように」と言われていましたが、職場のことが気になってしまい全く休むことができないのです。「本当は始業の時間だ」「この時期は繁忙期で忙しいのに・・・(自分はダメな人間だ)」など、とにかく考えることすべてがマイナス思考になってしまい、本当に落ちるところまで落ちたなという感覚がありました。復帰のイメージを描くどころか、このまま社会から、いや世の中からフェードアウトしていくのかもしれないとすら、漠然と考えていました。
 この頃の具体的な症状を書いておくと、朝起きられないことに始まり、(起きたとしても)何もする気が起きない、口が動かず呂律が回らない、ご飯を見ただけで嗚咽がする、電動車椅子に乗っても顔を上げて(目を開けて)運転することができない、好きな野球や音楽さえも雑音に感じる、決断ができない、というように異変は実に多岐に渡っていました。
食欲不振等は何となく想像していましたが、電動車椅子すら運転できなかったり、趣味が雑音に感じたりした時にはさすがに「終わった」と思いました。なぜ、これほどまでに仕事のことが気になってしまっていたかといえば、自宅に同僚がヘルパーとしてやって来ていたことが一因(環境要因)として挙げられます。
 私は、罪悪感からどうしても職場の状況を聞いてしまいますし、同僚もヘルパーですから、聞かれたら答えざるを得ません。まさに八方塞がりの状態でした。

私に残っていた最後の、”意地”

 このような状態になっても、私にはまだ実家に帰るという選択肢はありませんでした。会社の後押しもあり、1年近い準備の末に始めた1人暮らしを3カ月足らずで辞めてたまるかという意地と、何よりこのまま何もかも失ってしまうのではないかという、底知れぬ恐怖があったからです。
 両親を心配させたくないという思いもあり病を隠そうと心の中で誓いましたが、医師の診断が下ったその日、電話をしてきた母から「あんた、病気してるんじゃない?」と言われた時にはさすがに参りました。3日の嘘はすぐにバレました。

 その後、間もなく駆けつけてきた母が、私の前で流した涙は忘れられません。しかし、この日を最後に母が私の前で泣くことはありませんでした。きっと誰よりも「こんなはずじゃなかった」と思っていたはずなのに。

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