書かないと筆力が下がる
気づけばパソコンの前でnoteを書き始めたのは数日ぶりです。久しぶりに指を動かすその感覚には、どこかぎこちなさが残っています。まるでずっと乗っていなかった自転車にまたがるようなものです。乗り方は覚えていますが、最初の数メートルはどうにもバランスが取れない、そんな感じです。
自転車と違うのは、何とか書けるようになるまでのこの「初動」の部分が、毎回怖くてしょうがないところ。
うまく書ける日もあれば、そうでない日もあります。おそるおそる書き始めてみたら、筆が重くて重くて、いつものように言葉がつながらないこともあります。
そんな日には「やっぱり書かないとダメだな」と、つぶやきながら気持ちをリセットするしかありません。
書くための儀式
書かない日が続いたときの恐怖を乗り越えるために、私は自分なりの「書くための儀式」を用意しています。
まずは、パソコンの前に座り、いつもより少し背筋を伸ばして、まるでこれから大事な会議に臨むような気持ちで構えます。そして、ふっと深呼吸をひとつして、手元に置いたコーヒーカップを軽く持ち上げるのです。
この瞬間、なぜか頭の中に浮かぶのは、スタバの店内でカップをそっと上げるおしゃれな人々の姿。
わたしがその一員かと思いきや、ただの家の一室で、なぜか気取っている自分に気づいてほくそ笑みます。自分に笑えたら少し安心。そこから少しずつ、指がキーボードに触れ始めるのです。
でも、書くことなんて決まっていません。下手をすると、一行目を書いて「やっぱり違うな」と削除するのを繰り返し、気づけばコーヒーが冷めきってしまうことだってあります。
それでも、書く儀式をやめることはできません。というのも、書かなくなったときの「さびつく感じ」が、どうしようもなく怖いんです。
筆力は自転車のように戻ってこない
「書かないと筆力が下がる」という感覚は、実際に一度味わったことがあります。何日も、何週間も、いや、正確には数か月間、まったくといっていいほど文章を書くことをやめていた時期がありました。
理由は単純。面倒くさくなってしまったのです。書くたびに何か新しいアイデアが出てこなくて、むしろ空っぽの自分にいらだっていました。
そして、久しぶりに書いてみようとしたとき、それはもう恐怖の体験です。ことばが出てこない。まるで長い間眠り続けた言語の森の中で、道を失ってさまようような感じです。
以前ならばスムーズに流れていた文章が、あちらこちらでつっかかり、リズムもリズムじゃなくなくなります。音楽でいえば、ギターの弦が一本切れてしまったかのような、そんな不調感。
筆力は自転車とはちがいます。ペダルをこいでいれば自然に戻るものではありません。書かないと、本当に、消え去ってしまうのです。
書かないと、だれかの元気が失われる(かも)
「書かないと筆力が下がる」と思うたび、私はあらゆる言い訳を自分にしてしまいます。
例えば、「今の時代、文章なんてみんなあまり読まないのでは?」とか、「きっと誰もわたしの文章なんて必要としていないだろう」という感じです。
しかし、これがどうしてか、たまにポツリと「あなたの文章で元気が出ました」とか、ありがたいコメントをもらったりするものだから、また書こうと思ってしまいます。
「書かないと筆力が下がる」どころか、書かないことで知らない誰かの元気がひとつ減るかもしれない。こう考えると、書くための理由が一つ増えます。そして、その理由が、いつもと変わらない一日の中に、ほんの少しだけエネルギーを与えてくれるのです。
書き続ける理由
書かないと筆力が下がる。それは、いつも自分に向けて放たれるプレッシャーでもあり、同時に自分を奮い立たせることばでもあります。
筆力なんて、測れないし、何をもって「上手く書けた」と言えるのかも曖昧です。だが、書き続けることで自分の中に何かが育つのを感じることができる。それが大事なのだと信じています。
だから私は、日々の儀式を続けます。カップを持ち上げ、深呼吸をして、指を動かす。どんな文章でもいい、とにかく書いてみる。たとえそれが誰にも読まれない文章であっても。書き続けているうちは、私は私のことばを見失わずに済むのです。