楽器の思い出と『愛に生きる』
弦楽器を弾いていた。
「弾いていた」と過去形にしたのは、今ほとんど弾く機会もなく、よほどの心境の変化がない限りあらためて弾くこともないからだろう、そう思うからだ。
僕がヴィオラを弾くに至るわけ
ヴィオラだった。
ヴァイオリンと同じように弾き、ヴァイオリンより一回り大きく、二回り地味で、ヴァイオリンの代名詞ともいえる、高くて細い音を出せる弦の代わりに一本、C(ツェー)線という低い太い音を出せる弦が備わっている。
大学でオーケストラサークルに入ると、ヴァイオリンからヴィオラに変えた(じじつ、僕が非常にお世話になった先輩もそうだった)という人に会うことも多いのだが、自分の場合は最初からヴィオラを弾いていた。最初からC線の虜だったのだろうきっと。
変わっている部類、といえばいいだろう。小さい頃はヴァイオリンにヴィオラの弦を張って、練習に向かっていた。
そう、小さいころからやっていたのだ。
始まりは6歳か7歳の時。当時親の仕事の都合で住んでいた外国、そこで通った現地の小学校で部活というものがあって、それがきっかけだったように思う。
弦楽器(弦楽合奏)と管・打楽器(マーチングバンド)の勧誘があった記憶がある。その際に、各楽器の紹介(小学生なので、コントラバスだけはなかったように思う)のときに、ヴィオラの人が映画「ジョーズ」のテーマを弾いて、それにぐいぐい引き込まれた。C線の罠だ。
そんな記憶が、体感を伴わない情報として残っている。
周りに「なぜヴィオラを始めたの」と聞かれたときは、必ずと言っていいほどこのエピソードを話している。話自体が自己増殖しているのではないかと思うほどだ。その実、それから二十年近く、「ジョーズ」のテーマを聞くことはなかったし、「ジョーズ」のようなパニック映画はもともと好きではなかった。今回、この原稿を書くにあたって改めて聞いてみると、なんでこんなところに魅力を感じたのだろうと疑問符がついて離れない。
とにもかくにも、「ジョーズ」を勧誘の場で弾いた先輩がいてはじめて、僕はヴィオラを弾くことになった。そうでなければトランペット吹きになっていたと思う。実際、小学校のクラブではラッパを吹いていた。ラッパを吹くのは子供ながらに楽しかった。コルネットというのも、またよかった。
残念なことに、ジョーズの先輩の記憶はそれどまりだ。ほどなくして、日本に帰国することになったからである。
練習が苦痛
帰国してから、親に無理を聞いてもらい、習い事でヴィオラを続けることになった。いくつか教室をまわって、スズキメソードの教室が家から遠くもなく、面倒見もいいだろうということで、そこに通うことになった。
先生は厳格な方だったが、丁寧な指導をされる方でもあった。先輩方には優しくて、上手な方々も多かった(一人はのちに大学が一緒で、一人は慶応義塾大学のワグネル・ソサエティ・オーケストラという学生オーケストラの名門でコンサートマスターを務められた。教室での唯一だったヴィオラの先輩は今はプロとして活動されている)
私はレッスンが苦痛だった。とにかく苦痛でしょうがなかった。中学の途中くらいまで続けたのだろうか、その間じゅうずっと、毎週教室まで行くのがいやでいやでしょうがなかった。
毎日コツコツ練習をして、少しずつ上達していく喜びというのをうまく当時は感じられなかったのだと思う。毎週のレッスンの間に練習すること、一度や二度のみということはざらで、教室に行くたびに「さらってないでしょ」といわれるのが厭だった。今から振り返ってみると、不貞腐れて、それでまた練習しなくなる、という悪いサイクルを、続けていた。
また、定期的にある教室の発表会も厭で厭でしょうがなかった。そもそも人の前に出るということが、決定的に苦手だった、こともあるような気がする。人前で演奏したり、はじめましての人と話すとき(社会人になって営業を経験した時もそうだった)、これでもかというくらい汗をかく。下手をすると目の前が真っ白と真っ黒の間でチカチカする。もうこちらは演奏どころではない。
後でビデオを見てみると、曲の形にはなっているのだが、人前で弾くことに対する生理的な嫌悪感は、結局そのあともなくなることはなかった。
教室は、部活(その時は登山に熱中していた)が忙しくなってきたことを理由に、中学・高校のどこかで辞めた。教本は5巻の途中。探せばまだ残っているはずだ。それ以来、楽器もろくにさわらず、大学時代を迎えた。
オーケストラへの参加と「練習が苦痛」
大学に進学し、登山をサークルでも続けようかと思っていたが、大学のワンダーフォーゲルサークルの目指すところが自分がやりたいと思っていたことは違い、登山はいったんお休みとなった。
ひょっとしたら、と思い、管弦楽団(自分が学んだ大学ではオーケストラサークルのことをそう呼んでいた)の新人勧誘にフラフラといってみた。
それはもう、
熱烈な熱烈な歓迎を受けた。今思えばあとにもさきにも人生最大のモテ期である。
ヴィオラがそもそも人員不足だったこと、女性が多かったこともあって、男子校出身の一つ上の先輩(上で少し書いた、非常にお世話になった方である)がその代で唯一のメンズ(それも相当のイケメン)ということもあり、彼からのラブコールが一番すごかった。女性陣の先輩方も美人ぞろいで、こんな美男美女にちやほやされるなんてと、ホイホイ練習についていった自分が、今振り返ると小恥ずかしい。
全体での練習は好きだった。最初はダメダメだった合わせが、少しずつ形になっていって、一員ながら、スポーツでいうところの「フロー」に入る瞬間が好きで好きで、それが演奏面での最大の楽しさだった。
同期にも、後輩にも恵まれた。
特に同じヴィオラの同期は自分ともう一人しかおらず、たくさんぶつかることもあったけれど、その分腹を割って話せたことも多かったとおもう。感謝している。この場でなんだが、ありがとう。
ただ、練習嫌いは治らなかった。毎日とはいかなくても、週3-4くらいでさらうほどのマメささえ、自分にはなかった。結局大学時代もそんなに上手になることはなかった。
それを指摘されることもたまにはあって、気まずい感じになることもあったわけだけれど、それでも、楽しかったから、それでよかったような気がする。
案の定、卒業すると楽器をさわる機会は減り、決まっているのは(そもそもあるのかどうかわからないが)今はピアノを弾いているこいつ↓と自分の結婚式の時の二回だけ。
オーケストラで弾くことへの興味はなくなったわけではないので、声をかけてもらえれば曲を選んで(サンサーンスの交響曲「オルガン付き」とか、ブラームスの交響曲第三番とか、もうちょっとマニアックなところだとヴォーン・ウィリアムズの交響曲第五番とか)弾くのかもしれないが、何しろ練習していないもんな。しばらくは機会がないだろう。
『愛に生きる』
教室に通っていた時代の話に時を巻き戻す。
今思えば、練習自体も苦痛だったのだろうが、教室の周りにある空気、一種同調圧力に近いところ、も苦手だったのだろう。
各教室が集まって、小林一茶の俳句を全員で朗詠するところなども、正直気持ち悪かった。三歳にもならない、言葉を覚えたての子供がたくさん並んで、一茶の句を読む姿。初めて見たときは洗脳ではないのか、そんな戦慄さえ覚えた。
早いうちからスズキメソードで育った子たちは、当然のことだが、遅くから始めた子より上達が早い。教室での歴も長いので、知ってることは多い。後からきた自分はそうしたところに違和感を覚えたのだろう。勿論これは過剰な自尊心の裏返しでもあるのだが、それを知るにはあと18年ほど待たねばならなかった。
その流れから「演奏が上手な人が偉くて、そうでない人は偉くない」という謎の価値観が生まれたのだろう。ずっと、くだらないものに縛られながら今日にいたっている、というのをこれを読みながら考えさせられている。
当のスズキメソードの創設者鈴木鎮一氏の著書である。現代新書の番号は86。上梓されたのも1966年と今から50年以上前、まあよく絶版にならず電子版になって残っていたものだと思わされる。
鈴木氏の教え子で個人的に一番有名なのは、桐朋音大に長らくいらしたの江藤俊哉先生だと思っている。自分自身演奏者の系譜というのにはそんなに興味がないが、諏訪内晶子や千住真理子のお師匠だということくらいは知っている。間違いなく日本でのヴァイオリンソリストの名伯楽だ。
さて著者は「才能先天論」をかく論破する。
「どの子も育つものであり、それは育て方ひとつにかかっている。だれでも自分を育てることができ、そしてそれは正しい努力ひとつにかかっている。」
たとえ自分に才能がなくても、一個の人間として、自分の内面的な生活を築くために、その歩みはおそかろうと、一歩一歩自分を育てていかなければならない。その努力を捨てることはできない。──この芸術追求の心が、極度の絶望からわたしを救ったのです。わたしは急がなかった。しかし、わたしは休まなかった。休みなく努力を続けた。そしてそれが、張り合いと静かな心とを与えてくれました。
だれにも、それぞれに短所があります。その短所のなかで、いちばん共通して多い短所は、「やるべきだと思いながら、ただちにスタートしない」ことです。すぐに行動に移す──これは、あとで述べるように、ひとの一生の運命を左右するほど重大な能力です。この能力もまた、やることによってしかつくれません。そしてこの能力が、めざす能力をつくるのです。また、行動に移しても、三日坊主であっては、どんなこともできるできるはずがありません。ですから、あなたの生命が「こうしたい」と思うならば、それを行ない続けて、ついにやってのける能力をつくらなければどうにもなりません。
才能はあくまで自分の軸の中で花開かせるべきものだということ、花が開くには時間と我慢が必要だということ。そして努力しようと思うなら時機を窺う前に行動に移すべし、ということ。
そうだ。そのとおりだ。そして何より、鈴木先生の文章は優しい。とにかく、優しいのだ。ただひとつ、読んでいて、ある種の理想論ともいえる「美しい物語」に飽きてしまった、以外は。
優しさが生む、才能教育と呼ばれるものに、私は触れるのが遅すぎたのかもしれないし、あるいはそもそも水が合わなかったのかもしれない。「感動」という抽象的な概念に私は相性が悪いんだと思う。感動を売り物(スズキメソードはそれを売り物にしているとは思わないが)にしてしまうと、続くものが陳腐になってしまう。そうしたことを本能的に感じていたのだろう。
スズキメソードを否定するつもりは全くないし、熱意を持って取り組んでいるお子さん、親御さんには頭が下がるばかりだ。ただ、その根幹にあるものに何か腹落ちしないものを感じた私は、やっぱりなじめなかったし、別のやり方で楽器にアプローチするべきだったのではないか。今思うと、別のやり方を試す気概がなかったこと、中途半端に楽器を弾くことができたことがそうした道を閉ざしてしまっていたことに、残念だなと我ながら思う。
とにかく、よほど心境に変化がない限りは、楽器を弾くことはないだろう。特段後悔していないし、クラシックは今でも好きだから、コンサートが再開されるようになったらたまには聴きに行きたい。でもそれは、私にとってそれ以上でもそれ以下でもないのかもしれない。