東京にて ① 表参道の街路樹、雑踏
東京には何故こんなに人が多いのだろうか。
日本人はこんなにも増殖していたのかと度々思い知らされます。人間は増えても増やします。そろそろ間引きも必要なんじゃないか?と思うくらいには嫌気が刺してしまいます。危険な思想を持ち合わせてしまう自分が、あぁ、恐い恐い。まぁ、そんなことはどうでもよくて、この東京という街を独り闊歩していると見えてくるものがあるみたいで。あぁ、恐い恐い。人間が恐い…と思いながら、他人の目を気にしつつ、ときに睥睨しこのディストピアを歩くのです。なんて恐ろしい街なのでしょうか。そして、気づくと僕は人間観察が得意になった気分になれたのです。
例えば、「俗」なものとは何なのか、とか。この世には色々な物やサービス、ビジネスが蔓延っていて、時々、本質的なモノを見失いそうになります。まぁ、「本質なモノ」とは何ぞやと訊かれたとて、自分にはさっぱり解らず、応えることができないのですが…
表参道というエリアには、特に「俗」な人たちが蔓延っております。人々は皆、様々な紋様の服を着ております。奇天烈な柄、派手な髪…「此れが私です!」という、知らない人のどうでもいい自己顕示をひしひしと感じることができて面白いものです。かと言いつつも、僕も服が人並みには好きなので、その「俗」な人たちの一員になれているのかも知れません。そうやって、「俗」に塗れて、この街に馴れていったのです。
原宿、表参道には幼少期から母によく連れてきてもらいました。お洋服が好きな母はあちらこちらと大手のメゾンに赴き、散財していたのでした。「これ、あなた似合うわね、買ってあげるわ。」そんなこともありました。そんなことを年に何回か繰り返していると、僕も物心つく頃には、世間的に云うお洒落を楽しんでいたのです。欲しい服を買い、近くの喫茶店で珈琲を啜り、洋菓子を食し、街路樹の通りで煙草を吸い、また違うお店に行く母の姿を見て、これが東京観光なのだと思っておりました。
父もついてくることもありました。母より父の方が買い物が長く、じっとしていることが苦手な僕は店の周りをぐるぐると回ってみたり、親の元から離れたりしてよく怒られたものです。一つ下に弟もおりましたので、一緒に店の物を勝手に弄りまわしたりもしました。一応、僕にもその頃から、申し訳なさみたいな感情は持ち合わせておりましたので、率先して親の購入品を持ちました。そうすれば、許されるのではないかという甘い甘い考えです。
そしてふと思ったのです、二十歳齢にして、僕も上京して両親と同じことをしている。何も変わらないではないですか。やはり、小さい頃に見た憧憬は、自分に影響するものなのでしょうか。蛙の子は蛙という訳なのでしょうか。今も同じ気持ちです。あの服が欲しい。かっこいい物を見に纏いたい。というお気持ちと、人様に舐められたくない。というか、少しはまともな服を着ていないと外に出ることができないという感情。その二つを持ち合わせて、今日もこの街を闊歩しております。
東京に出てきてから、少しは田舎民憧れのシティボーイといふ者に慣れた気がします。東京は生き辛い街です。お金もかかるし、出会う人すべてが良い人とは限りません。いろいろな誘惑があります。多くの人が東京に憧れを抱いています。恐い街。そんなこの街について、多くの文豪や音楽家が描いたように、僕も述べてみようかなというお気持ちです。拙い文章ですが、何卒。誰にも読まれない文章で構いません。記したい。刻みたい。
東京は愛せど何もない―――。