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「栄枯盛衰、武田の栄光」”ソロの細道”Vol.19「山梨」~47都道府県一人旅エッセイ~

思い返せば、山梨は何かと縁のある場所だった。

大学のゼミの合宿では山中湖や河口湖でやることが多かったし、大学時代の彼女が山梨出身だったこともあって、彼女の実家に泊まらせてもらいつつ、八ヶ岳や清里、昇仙峡や勝沼などにも連れて行ってもらった。

新宿から高速バスに乗れば結構近い、ということを知ったことも大きかったかもしれない。

そんなこともあって私にとっては身近な存在だった山梨だが、一人旅で訪れたのはこれまでで二回だけ。

一回は年末年始の18きっぷ旅で、山梨から長野にかけて旅をした時だが、なんと最初に訪れた勝沼ぶどう郷でカードケースを落としてしまい、クレジットカード一式を紛失するというアクシデントに見舞われたのも良い思い出だ。


そんな山梨へ、今年「武田家の所縁の地巡り」の旅に出かけたのは、甲斐武田家で最も有名である武田信玄の生誕500周年の記念の年だったから。

せっかくなら、今まで行ったことのある場所も含めて一挙に巡ろうと計画したのだった。


旅のスタートは、JR中央線に乗って西へと進み、「武田史跡のまち」塩山駅で下車する。

駅を降りると、どっしりと腰を下ろした立派な武田信玄像が出迎えてくれる。

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なぜ塩山が「武田史跡のまち」を名乗っているかというと、塩山エリア(合併前の塩山市)に多くの史跡と武田家の家宝(御旗楯無)があるから。

その中でもまずは塩山駅から歩いてすぐにある、菅田天神社へと向かう。

この神社には、武田家の家宝である国宝”楯無鎧”(正式名称:小桜韋威鎧 兜・大袖付)が納められているのだ。

この楯無鎧にまつわるエピソードも興味深い。こうして旅で実物を目の前にして、スマホで検索して調べられるというのは現代だからこそ。

楯無鎧は武田家興隆の時代から菅田天神社に奉納されており、武田家滅亡の折には持ち出されてとある寺院に埋められたが、それを徳川家康が掘り起こして菅田天神社に戻したという経緯がある。

そして江戸時代には盗難に遭って破損し二度にわたり修復され、戦後になって国宝認定されたという。

現在ではその実物はほとんど開帳されることはないものの、戦後に作られたレプリカが山梨県立博物館や武田神社、江戸時代に作られたレプリカが福島県白河市で見ることが出来る。

とはいえ、「この宝物庫の中に実物があるのだ」という実感は、実際に現地に訪れたからこそ感じることが出来るのだろう。

塩山駅前にひっそりと佇む小さな神社。知っている人にしかその価値を知られていない興味深い場所だ。

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菅田天神社を後にして、その近くにあるレンタカーショップで車を借りて向かったのは、武田家のもう一つの家宝である”御旗”(現存する日本最古の日章旗)が奉納されている、雲峰寺。

塩山駅からは車で15分ほどのところにあるこの寺院は、山の中にあって多くの巨木に囲まれた、凛とした雰囲気を感じさせるような場所。

一直線に伸びる石段を登り切り、心弾ませて宝物殿に辿り着いた私を待っていたのは、無情な張り紙だった。

「只今休館中」

ホームページなどで事前にしっかりと調べ、休みなどの告知が無いことを確認しての訪問だったため、何とも諦めきれずにドアの前から電話をしてみるも、電話のベルの音はその「休館中」と書かれたドアの向こう側から寂しく聞こえてきた。

周りに人気は無いわけで、いくら鳴らしてもその電話が繋がることは無かった。

残念無念・・・。泣く泣く諦め、寺院の入り口に貼られていたポスターの御旗を写真に収めたのだった。

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気を取り直した後は、車で二つの寺院を回り、また電車で甲府市に入ってはいくつかの史跡を巡ることになるわけだが、せっかくなので武田家にとっての流れを整理しながら紹介したい。

まずは武田信玄の誕生した場所。それが甲府駅から車で15分、そこから山道を登ること50分ほどで到着する要害山。

要害山には武田家の居城である躑躅ヶ崎館の詰め城として建てられた要害山城があり、この要害山城で武田信玄は産まれたとされていて、今回の旅では外せない場所だったのだ。

とはいえ山城である要害山城は、もちろん標高770mの要害山の山頂にあるわけで、辿り着くにはそこまで整備されていない山道を往復1時間半くらいの山登りが必要。

今回の旅では朝7時前に登ったので全く人気がなく、熊よけとして聞き逃していたナイナイのオールナイトニッポンを大音量で流しての登山。
人気の無い登山中のラジオ、これがなかなか気持ち良いのだ。

こうして登り切ったところには、「武田信玄公誕生之地」の石碑があった。なんとこの石碑の字はあの東郷平八郎。

何故?と思い色々と調べてみると、どうやら東郷平八郎は武田信玄マニアだったらしく、信玄の戦術などを研究していたのだという。そうしたこともあり、この石碑に関わったようだ。

これぞ現地に行かないと気付かない事実。実に面白い。

この石碑以外にも、山頂からの眺めは気持ち良いし、道中には武田不動尊の石像やお城の遺構などもあって、なかなか見どころの多い攻城となった。

ちなみに帰り道も相変わらずラジオを流しながら歩いていたら、下から老夫婦がちゃんと熊よけの鈴を鳴らしながら登ってきて、少々バツの悪い思いをしたのはまた別の話。

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要害山にて早朝山登りを楽しんだ後は、バスにて武田神社へ。

武田神社は大学生のとき以来なので20年ぶりくらいだが、何だか綺麗になっている気がする。

大河ドラマで山本勘助や真田幸村が取り上げられたタイミングで整備されたのかもしれない。

武田神社は武田家の居城だった躑躅ヶ崎館の跡地に建てられた神社で、名前の通り武田信玄を祀っている。

ちなみに信玄のライバルである謙信も山形県米沢市の上杉神社に祀られているというのはこのエッセイの「山形」の回で取り上げた通り。

こうやって地元の英雄を神社で祀る、というのは正直羨ましく思ってしまう。地元の沖縄では見かけないのだ。


武田神社は「武田氏館跡」として日本100名城にも選ばれていて、実際に境内には曲輪跡などの遺構が色々と残されている。

宝物館には信玄愛用の軍配や軍旗、刀剣なども収められていて見学できる。そう、今回の旅で実物を見逃した”御旗”や”楯無鎧”のレプリカも。


元々このお城は”館”とついているように大きな石垣を築くといったお城ではなく、平城であり、また周囲には家臣団の屋敷を配置していて、まさに「人は石垣」のようなお城とも言えるだろう。実際に武田神社近辺には「高坂弾正屋敷跡」といった看板が点在している。

周辺にはその他にも武田信玄の廟所や、信玄の妻である三条夫人の墓所である圓光院、そして2年前に新しく出来た「信玄ミュージアム」という展示室があり、周辺を回るだけでも信玄期の武田家の歴史に触れられる。

正に「武田家の城下町」が甲府なのだ。

ちなみに駅前にある甲府城は、武田家が滅亡後に甲斐を治めた徳川家康の命で築城された城と言われていて、武田家には全く関係が無いというのも興味深い。

(甲府城の元となった一条小山城は武田家の城だったが)

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続いては恵林寺。塩山から車で10分ほどで到着できる場所にある。

恵林寺は武田家所縁のお寺であり、武田信玄の菩提寺ということで墓所もある。信玄の墓は恵林寺と甲府の二カ所にあるということだ。

また「心頭滅却すれば火もまた涼し」という有名な言葉は、この恵林寺の和尚だった快川紹喜国師が、武田家を滅ぼしてその残党を匿ったこのお寺に火をつけた際に、炎に包まれた中で唱えたと言われている。(諸説あり)

江戸時代は幕府における武田信玄の神格化が行われたこともあり、恵林寺も再興されてかなり立派になったわけだが、今でもそれは変わらずで、広い境内はしっかり整備されていて、武田不動尊や重要文化財指定の四脚門などがあり、また入口には「風林火山」の文字が出迎えてくれる。

信玄公のお墓も含め、境内の本堂や庭園など見所が多く、武田家好きには外せない名所だ。

しかしよくよく考えてみると、ここまで武田信玄や真田幸村が神格化されている理由というのが、徳川家康が天下人になったからであり、江戸時代が260年も続いたからだというのは面白い。

江戸幕府のトップであった家康が惨敗した相手が武田信玄であり、また大坂の陣であわやのところまで追い込まれたのが真田幸村なのだ。

その相手が強くなければ家康の沽券にかかわるわけで、「歴史は勝者によって作られる」し、印象操作も行われるのだと気付かされる。

それもまた「歴史」であるし、こうした定説を覆すような新史料が発見されるというのもまた「歴史のロマン」なのかもしれない。

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さていよいよラスト。

この旅の最後に紹介するのは、甲斐武田家滅亡の地である天目山。実際の旅では位置関係上最初の方に訪問してしまったのだけれど。

この天目山に追い詰められた武田勝頼は、1582年に織田信長に追い詰められ、自害した。

それもあって天目山のふもとにある景徳院というお寺に、武田勝頼やその夫人に嫡男のお墓があるが、これは武田家滅亡後にこの地を治めた徳川家康が建立したのだとか。


時は1582年。織田信長と徳川家康の連合軍に追い詰められた武田勝頼は、真田昌幸が勧める岩櫃城ではなく、譜代である小山田信茂が治める岩殿城へと向かったものの、裏切りにあい失意のうちに天目山へ。

そして天目山のたもとにある田野地域の鳥居畑や四郎作にて家臣が徹底抗戦するも支えきれず。

ここに名門・甲斐武田家の宗家は滅亡するに至った。

戦国最強と言われた武田家の栄枯盛衰。

もし武田信玄があと数年生き続けていれば、もしかすると織田信長は負けていて、信長⇒秀吉⇒家康の戦国三傑の政権リレーは起こっていなかったと思う。

そんな歴史のifを感じられる地。これぞ歴史のロマンだと思う。

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家康によって神格化された武田家。

その武田家所縁の地をこうして巡ると、色々な感情が浮かんでくる。

しかし間違いないのは、地元の人たちの武田家への信頼であり、信玄への敬愛だろう。

武田信玄の生誕500周年となった今年。毎年4月に行われていた「信玄公祭り」を何とか開催しようと、時期をずらしてまで調整したものの、昨年に続き二年連続での開催中止となってしまった。

私が訪れた当時、タクシーの運転手が「節目だし何とか祭りが出来るといいんですけど」という言葉を思い出す。

来年こそ、節目は少し過ぎてしまったものの、甲府の人たちが笑顔で祭りを行っている姿を見せて欲しいし、その際には私も訪れたいと思う。

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