私が私に見ているもの(という自己紹介)
初めまして!
noteを見に来てくださってありがとうございます。
自己紹介として、私が見ているもの、私がここにあるということを綴ります。
世界遺産となった製鐵の町から
私は昭和50年代に八幡製鐵所のある福岡県北九州市で生まれ育ちました。「起業祭」「製鉄病院」「高炉台公園」という名前だけで文脈が理解される地域性です。中でも新日鉄(正式名称 新日本製鐵:当時の社名)の社宅がある地域に住んでいたので、友達の家が平屋の庭付き一軒家なのかアパートなのかで、企業内のヒエラルキーが想像できる小学生時代。定期的に木更津や君津からの転入生が来ては帰っていきました。祖母や親戚も、「新日鉄に勤めていると偉い」「新日鉄○○に就職できたのは良かったね」と言うような「鉄」に関係する会社を自慢に思う人たちでした。
一方、父は地元のプラント企業に勤めていたので、八幡製鉄所に加えて長崎や広島の造船所、山口のセメント企業にほぼ毎週出張で不在がち。ちなみに最近気づいたのですが、父と母は社内結婚、妹も父のコネで事務職として同じ企業で働いていたので、家族4人中私以外がこの会社にお世話になりました。
生まれも育ちも北九州の母は服装やインテリアのセンスがよく、家の中もきれいに整えていて夕食の際はクラシックのレコードをかけていたので、東京の伯母からは「あんたの家は田舎っぽくない生活している」などと言われていました。誉め言葉です。私と妹の服装も、母が選んだグレーや茶のシックな感じが多かったです。
私自身は小学生の時に、開業して数年の東京ディズニーランドと伯母の家に遊びに行って以来東京志向が強く、両親に「なんでこんな田舎に住み続けてるの?」と言ったこともあるほど、北九州に住んでいることにつまらなさを感じていました。その後中学3年生の時に、参加していた少年少女合唱団の交流事業で姉妹都市のアメリカのシアトルとカナダのビクトリアを訪問するのですが、東京以上の感動はなく、もともとの希望どおり東京の大学に進学したのでした。
見えないものを解明したい
大学で何を学ぶか、直感で選んだ専攻は哲学。幼いころ布団の隣で眠る母の顔を夜中ふと眺めながら、「宇宙人みたいだな」「寝ている間の母は、私にとってどんな意味があるのか」「また私が起きると母も人間に戻るのだろう」などと勝手な思考を巡らせていたことを覚えています。どうも、見ているものの裏側にある、私がなぜここにあるのかという根拠を探し求めていたようです。
高校まで習っていたピアノに関しても、楽譜をみるとある程度まで早く弾けるようになるタイプでしたが、それ以上に演奏を究めることにはあまり興味がなく、なぜ美しくなるのか、どのように美しいものが構成されているのかという理論・楽理に興味がありました。
そのような感じで、プラトンのイデア論に近いことをなんとなく幼いころからずっと考えていました。今でも内向的思考が強く、様々な外的要因から本質を引き出そうと考えることが好きです。
そしてなぜだか子供のころに繰り返し見た夢が、コンピューターがたくさんあるデータセンター内の景色。予知夢なのか、後に大学卒業後はIT企業に就職することになるのでした。
梅丘の伯母
東京の世田谷に住む、私の伯母、小松さん。背丈が170センチほどあるので、昔は笑いの種にされた名前のようです。私が大学進学のために東京に行ってから頻繁に会うことになり、また一時期は同居させてもらっていたのである意味両親よりも親しい存在。早口、きっぱり言う、歩くのが早いなど、北九州の私たち家族から見ての東京の人代表。今後私が恩返ししたいのはこの世代です。
留学生についてきた母です。
3年前に夫がイギリスへ転勤になったので、約5年働いた3社目の会社員の仕事を辞め、中学生の息子とともに付いてきました。なお、「駐在員の妻」という立場は約10年前の香港・上海在住に続いて2回目ですが、このことは探求したい裏側が見出せないので書くことはありません。どちらかというと「留学生についてきた母」と名乗っています。
最近、会社の同僚だったある女性が退職したということを知りました。彼女は産休・育休を経て約20年継続勤務していたので、何があったのか気になりました。本人に話を聞くと、理由は「小学生低学年の子供ともっと一緒に過ごして意思疎通をとりたい」ということ。子供が同じ年齢の頃を思い返すと、私自身はそのようなことを真剣に考えることができなかったので、彼女の決断が心に響きました。
このことを私の息子に話したら、「わかるよ、その子の気持ち。もっと小学校のころ母さんが構ってくれたらいいなと俺も思ったもん」と。そうだったのかと少し申し訳ない気持ちになりながらも、だいぶ遅れて6年後の今、私は基本は家にいることができ、イギリスで過ごす思春期の息子に寄り添おうとしていることに一人喜びを感じる毎日です!
イギリスの現地中学校の様子もときどき記録しています。
概念と理論的根拠を大切に
このキャリアブレイク中に何か取り組もうと、米国州立大学のMBAを始めました。最短で2年弱で修了できる全16科目のパートタイムのコースも、あと4科目となり、今年12月で終えられる見込みです。でも、なぜイギリスの大学のフルタイム通学コースではなく、ライブ授業もなく学生同士のつながりもそれほど密ではないオンラインを選んだのでしょうか?
中学校・高校時代、私は先生の授業に全く集中できず、その時間はぼーっと過ごして、家に帰ってから一人で教科書を自分のペースで読み進めていました。その理由は、MBAのある科目のグループワーク前に全員がお互いを知るために受けるように指示されたMBTI(Myers-Briggs Type Indicator)のLearning Styleの中に見つかりました。
私の結果であるINTPタイプは、何かを学ぶときに情報の断片間の理論的なつながりを考え出そうとして、一度に大量の情報が詰め込まれると、気が散ってしまうことがあるとのこと。また広範で複雑な教材を独力で学習することができるが、反対にグループワークへの参加は学習が妨げられるようです。そのため、結果としては自分のペースで進められるオンラインコースが私には合っています。そして個々人に合った学び方を選ぶことも重要だと最近気づくとともに、子供たちにもいろんな学習ニーズが潜んでいる気がします。
MBAでの学びもまとめていきます。
シニアとして幸福感を上昇させる
前回のキャリアブレイクは、香港・上海に滞在した約3年でした。そこからの再就職活動での出来事についてこちらに回想しました。
来年の1月にはイギリスから帰国する予定なので、再び3年のブランク後の求職活動を始めます。とはいっても、必ずどこかの企業に所属したいというよりは、「個人事業主マインド」(法政大学大学院 石山恒貴先生)を持って、ジョブ・クラフティングしたい心構えです。
本日、転職サイトのBizreach内の職務経歴書をアップデートしていたところ、フォーマットに特記事項というフィールドがあったので、今後特に役立てたい知識やスキルを書き出してみました。
Prosci®チェンジプラクティショナー(2019年10月):変革イニシアチブを成功させるための知識、スキル、ツールを習得。その後も個人の変革マイルストーン「ADKAR」(認知、欲求、知識、能力、定着)コースややケースタディワークショップなどグローバルでの研修に参加し知識をアップデートしている。
一般社団法人日本PMO協会認定 PMOスペシャリスト(★)およびプロジェクトマネジメント・アソシエイト(2023年12月):リーダーとして新しいモノやコトを生み出すために、独自の目標と期限を持った「プロジェクト」を計画し実行する知識、技術、思考を習得。
米国MBA(経営学修士、2024年12月修了予定):戦略、マーケティング、オペレーション、財務会計の全般的な知識に加え、組織行動や組織変革においての成功・失敗事例や理論を学習し、実務に活かせるアイデアを保有。
株式会社やさしいビジネスラボ提供 やさしいビジネススクール会員として、個人を活かす組織論、人的資源管理論、人材育成論、組織行動論、サステナビリティ経営を含む20科目を受講済(2022年1月~)。加えて自主サークル「チェンジ&イノベーション部」共同主宰。これらの知識・理論と、これまでの外資系企業のビジネス部門の経験からの人的資本への視点を組み合わせた実践の場を探している。
株式会社グローバル・キャリアデザイン認定ポジティブフィードバックインストラクター(2024年6月):コーチングの視点で、人・組織が変わる成長のための良質なコミュニケーションであるポジティブフィードバックを実践・普及するインストラクターとして、研修提供や現場でのコーチングが可能。
一般社団法人夢を叶える話し方協会 ストーリートーキング(2024年1月~):外資系企業の職務記述書にも定義されていた、リーダーの要件である、人を納得させて動かす話し方 ストーリーテリングを学び、実践中。
こうして見ると、今回のキャリアブレイクの間に十分な個人事業主マインドを醸成させることができたかもしれません。自身の持つ大きなエネルギーを、縁の下の力持ちとして、右腕として、世の中に出していく10年としたいと思います!
参考:石山 恒貴『定年前と定年後の働き方~サードエイジを生きる思考』