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時空を超えて惑わすものたち・羽生結弦の世界選手権2021

  2021年フィギュアスケート世界選手権男子シングルを拝見した。無観客試合ということであったが、羽生選手の出番には各国の選手や関係者たちが相当数スタンドに入り、盛り上がるままに歓声を上げる方も多く、「Let Me Entertain You」はロックコンサートのようだった。そうした関係者が個人的に撮影してインターネットに上げた動画もあって、左サイドの上の方の席からほぼ固定でリンク全体を入れて撮られた画像が面白かった。画質は今一つだが、複雑なステップを踏み、全身を大きく使いながらリンクを席巻する羽生の動きがよくわかる。60m×30mもあるリンクをやすやすと支配し、金をあしらったライダーズジャケットがまるで黒い閃光のように鋭い残像を刻んでいく。素晴らしくキラキラして見えるのは、技と技の間も全身を使って絶え間なく何かを発信しているから。彼のアクションに合わせて歓声が渦巻くさまはまるでオーケストラを指揮しているようだ。これだけ全身を動かしてスケーティングが揺るがないのは大変な技ではないだろうか。
 2019年さいたまスーパーアリーナで開催された世界選手権はほぼスタンドの頂上、天井に届くような席から拝見したが、そのくらいの位置からだと選手の動きは肉眼ではかなり見えにくい。選手によってはどっちを向いているかさえわからない。しかし、あの時も羽生の「Origin」は違っていた。動きのキレが良いだけでなく、形の決まり方がよいというか、発信力が強いというか、くっきりと大きく見えるのだ。それは、この「Let Me Entertain You」の遠い動画でもまったく同じだった。

 昔、光太郎の演ずる能「葵上(あおいのうえ)」を見て不思議に思ったことがあった。葵上はご存じのように源氏物語が題材だ。タイトルロールの葵上は光源氏の正妻でここでは嫉妬される側。しかも病床に伏せている設定で、人が演じるのではなく舞台に置いた小袖一枚で表される。シテは源氏の年上の恋人、若い恋敵を祟り殺そうとする六条御息所だ。前皇太子の未亡人であり美貌と教養で知られ、軽い女ではない。それが年下の光源氏にほだされて深みにはまり、しかも捨てられようとしている。プライドをぼろぼろにされた六条御息所は生霊となって、正妻・葵上の病床に表れる。面は般若、手には打杖を携えた鬼の姿だ。気づいた僧は数珠を音高く押し揉んで読経を強める。その勢いに押されてじりじりと退く御息所。追い立てられ、いったんはしおれる様にこうべをたれるが、死力を奮って反撃に転ずるや、恐ろしい勢いで打杖を振りかざし、僧に打ちかかる。「優美が勝って三番目もののようになってはならず、強きに過ぎて下品に陥ってもいけない」と言われる場面。姿優しく、所作は鋭い光太郎の御息所が美しい。しかし、ここで、私は何かに引っ掛かりを感じた。面がいつもの般若と何処か違う。つい先月、別の演者、別の演目で見た般若ではない。金色の大きな目を剝いて打ちかかろうとするその瞬間、額の角がするすると伸び、僧を突き刺そうとするかのように見えた。そう、角が長いのだ。般若は鬼面の中では位が高く、裂けた口元こそ恐ろしいが、眉から額、はえぎわにかけて増女などの気品ある女面に通じる美しさを残している。この日の般若も同じ特徴を備えているが、角が異様に長く、上目遣いに僧をにらむ目元が哀しい。蔵には写しなども含めていくつも般若の面があるだろうから今日は違う般若が出されたのだろう。怒りというより悲哀を滾らせて僧に迫る様子は面そのものに意思があるかのように恐ろしかった。面こそが妖しの本体であり、六条御息所の心の闇に憑りついて引きずりまわし、狂わせているかに見えてくる。おのれを見失い、嫉妬の鬼となった御息所は読経に責められ、護摩の煙に燻されてのたうち回り、ついに調伏されて消えていく。けれど、御息所は鎮められても彼女を操った般若はまたどこかで誰かに憑りついて怨念をまき散らすに違いない、そんな風に思わせるほど哀れに美しく、強い面だった。

 その夜、光太郎に般若について聞いてみたところが「いつもと同じ」だという。「でも角が長かったし、顔つきも違ったでしょう」というと光太郎は「わかった? 」と目元だけで笑い、「そう見える様にしているから、さ」と言った。面を掛けるときの角度、頭の動かし方で同じ般若でも角が生きて、力強さ、表情の深さが変わる。面の動かし方、見せ方だけではなく、足元の運び、所作、謡い、諸々に技巧を施すことによって幻惑の網を紡ぎ出し、観客をからめとり、酔わせ、常ならぬものを見たと思い込ませるのが芸であるということらしい。普通でない輝きや妖しさを作り出す技は時に妖精の粉をまぶす魔法のようにも見えるが、弛みない研究と鍛錬の上に成り立つものなのだろう。

 羽生を見ていて思い出したのがこの葵上の般若だった。羽生のコンボスピンは、構成してる要素がほぼ同じでも楽曲に合わせたポジションチェンジや手の動きで違うもののように見せてしまう。、平昌五輪エキシビション「Notte Stellata」のイナバウワーは白鳥の羽ばたきを思わせ、2019年世界選手権「Origin」のそれはプルシェンコと薔薇の精へのオマージュとなり、2020年全日本メダリストオンアイス「春よ来い」では風と戯れる枝垂れ桜さながらの風情だった。「春よ来い」のハイドロブレーディングが大地に目覚めを促す妖艶な口づけならば、「Origin」のそれは異界の王が自らの統べるサンクチュアリに張り巡らす結界だ。今や羽生は、スピンやつなぎ要素だけでなくジャンプにまで演出効果を加えてしまう。「Let Me Entertain You」の、着氷を曲のアクセントの合わせて跳ぶロックスターの3A、そして3月28日の世界選手権エキシビション「花は咲く」で見せた蕾が一気に膨らんで花開くような3A。エレメントを自在に演じ分け、見事に調和させて織りなすプログラムだからこそ、誰もが目を離せなくなる。会場だけでなく電波の彼方まで瞬く間に自分の世界観に巻き込んでしまう力は驚異的だが、決して魔法ではなく、工夫と鍛錬に支えられた究極の技巧というべきだろう。

 27日のフリー「天と地と」は少し不安定で苦しい演技となってしまったけれど、決意に満ちた謙信公は強く印象に残った。3つ目のジャンプを跳んだあたりで既に息が上がっていてリアルタイムで見ているときは辛かったけれど、見返すと眼差しの強さが迫ってくる。前半のミスを振り祓うように、加点の付く美しさで後半の2連続、3連続ジャンプを跳んだのは見事だった。2013年世界選手権の時も体調が悪く、「Notre-Dame de Paris」の最後は倒れ伏してしまったけれど、今回はしっかりと踏みとどまった。しかし、フィニッシュで天を仰いだ目元は青黒くくまどられ、唇も色を失い、まるで絵画か彫刻の「聖セバスティアヌスの殉教」のように見えた。不謹慎で申し訳ないが、重い怪我や体調不良を抱えて試合に臨むとき、不調に打ち勝とうとする凄絶さが滲み出るのか、羽生は人離れして強く、美しくなるようだ。ニースのロミオも中国杯のファントムもそうだった。
 終了後のプレカンで羽生は「4Aを試合で最初にクリーンに跳ぶために必要なことをしていく」と語り、現役を続けると教えてくれた。「天と地と」の4分間で私の心拍数はシーズンベストを超えたが、来季、4A挑戦を心おきなくハラハラと見守るために、少し鍛えておくことにしよう。

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