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たとえ今がどんなでも、生まれたときには愛がある

今季のドラマを見ていて、
ああ、これは。そのまんま家族の座のお話だ
と思ったおはなし
自分の自己肯定度というか、成長が見えてくるお話




TOKYO MER(走る緊急救命室)5話の最後で
エレベーターに閉じ込められた医師(官僚)が
一緒に閉じ込められた政治家か、
妊婦さんとお腹の赤ちゃんどっちを助けるかーーー
という事態になったとき、


結果的には、その医師は命の危険が
迫っていた母子を助けます。

そして全てが終わった後、
政治家の尻拭いのために、
救出されて入院中の母子のもとを訪れ、
お金を渡そうとしたときのお話です。


で。
そのとき
そのお母さんは
「そんなのどうでもいい」って言ったんですよ。

目の前の子が無事に生まれてきてくれた
それだけでいい。って
それ以外はどうでもいい。って。


それを見ていて
「ああ、子どもを思うお母さんってそうだな」
って思いました。



ただまっすぐ、わが子に目を向けてみる


お金はあったほうがいい。
そのドラマでの政治家の態度はどうなんだ。
だから偉い人は云々カンヌン
日本の政治は云々カンヌン
官僚さん、あなたも大変ね。云々カンヌン


目線をそらしたら、言えることはたくさんある。
人をジャッジして、文句を伝えることもできる。

でも、

目の前の子をただ観ていたら
無事に生まれてきてくれてありがとう。
エレベーター内で帝王切開になっちゃったけど
あなたが生まれてきてくれて嬉しいよ。

お母さん嬉しいよ。

それがすべてなんだな。
って思ったのです。



あなたを10ヶ月お腹に抱えました。


ドラマで、そのシーンを見ていて浮かんだのは

「私はあなたの母親です。
あなたをお腹に10ヶ月の間、抱えました」
という
コンステレーションの中で使われることば。


どんな親であったとしても
子どもと暮らす中でどんな親子関係を築いたとしても
私達がこの世に生まれてきたのは、
「私」という命を10ヶ月おかなに抱えてくれた
お母さんがいるから。
 

そして、生まれてきてから始まる年月の中で
どんな親であったとしても
子どもと暮らす中でどんな親子関係を築いたとしても

お母さんが、わが子を生んだときの
ドラマで見たお母さんのような気持ちは
みんなにあるんのだよな。と思ったのでした。



共に過ごした年月どんな親子だったとしても

コンステレーション(家族の座)の中では
いろんな家族の姿が見えてきます。


コンステレーションを受けに来られる方の中には
できれば自分の親とは距離を置きたい。
苦手だし、憎んでいる。
どうせ受け止めてもらえないから、諦めている。
今も母にほめられたい。でも心は乱れる

というように、
一人ひとりいろんな思いがある。

一人の人の中にも、いくつもの思いがある。


多くの場合、私達は
それがネガティブだといけないと思うし
隠そうとする。

あるいは、
ネガティブな関係や気持ちを持っている自分を
**な親だから仕方ないとか。
正当化しようとする。


でも、
フラットに見て、そういう気持ちがあるというのは
あっていいものなんです。


だけど、始まりは愛。なんと言っても愛。

で。
いろいろに思う気持ちはあっていいのですが

コンステレーションを受ける中でどんな人も感じるのは
私は愛されていたんだな。
ということ。

理屈じゃなくて、
頭でごちゃごちゃ考えたことでもなくて、
なんだか「ああ。そう(ほっ)」てのが
必ずある。


私達は覚えていないと思う
自分が生まれたばかりのときの親のこと
そこは本当に純粋に
生まれてきてくれて、お母さんは嬉しいよ。

そこから年月をかけて積み重なった時間で
いろいろ思ったとしても

でもね、
その始まりの愛は
とても大きな力を持っていると思うのです。



って。
テレビを見ながら思ったのでした。

今、自分の家族にいろいろ思うどんな人でも
この生まれてきてくれて嬉しいよ。
この体験を感じてみると、
ムダに(無理に)ポジティブにしなくても
ああ、私、愛されているな。って思える。


そこから自分の作る世界を見直してみたら
ぐっとなにかが変わります。
 

ではでは。

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