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ふたつのゴルトベルク
はじめて夫婦でクラシックのコンサートへ行った。聴いたのは、ヴィキングル・オラフソンによるゴルトベルグ変奏曲である。
サントリーホールは、間近にせまったクリスマスの装飾できらきら光っていた。カラヤン広場に着くと、ちょうど開場を告げるオルゴールが鳴り、コートを着た聴衆が扉の中へ吸い込まれるところだった。
順番を待つあいだ、「芸術家はゼロから一をつくるという神話って何なんだろうね」と話した。よく知らない分野の創作は、まるで中空からつかみ出されたかのように見える。でも、自分の知っている分野だと、創作は組み合わせだと分かっている。
中へ入ると、すでにホールは八割方埋まっていた。席は一階の十四列。いい位置だった。ステージにはピアノが一台置かれ、弾き手がやってくるのを待っていた。開演時刻が迫るにつれ、客席が満ちてゆき、話し声が小さくなっていった。
「満席だね」
と、彼女がささやいたとき、開演を告げるベルが鳴った。
みじかい沈黙。
古いライブ盤を聴いているときのような、抑えた咳払いが散発的に響いた。そして、静寂が訪れた瞬間、照明が落とされた。
ステージに現れたオラフソンは、聴衆に一礼してピアノの前に座ると、ほとんど間をおかずに弾き始めた。
まる八十分、彼はゴルトベルグ変奏曲を弾き続けた。千回以上聴いた曲だったが、オラフソンのメリハリの効いた解釈を生で体感すると、曲のダイナミズムや奥行き、グルーヴや強弱、テーマとフォルムを全体の構造のうちに受け取ることができるのだった。
けしてさわがしい曲ではないのだが、まるで何かが爆発し続けているような印象を受けた。いや、爆発が起きていたのは、私の頭の中かもしれなかった。これまで聴いてきた様々なピアニストのゴルトベルグ、特にグールドのゴルトベルグを聴いてきた記憶と、眼前で展開されている現実の演奏が衝突しているようだった。
私はうれしかった。人間がこの曲をつくり、人間が弾いていることがうれしかったのである。演奏の後、鳴りやまない拍手をさえぎって、バッハは太陽系を創造したとオラフソンは語った。
帰り道、赤坂でソルロンタンを食べた。オイキムチや韓国海苔、じゃこ等の小品がテーブルいっぱいにおかれ、どんぶりに入ったスープがやってくる。私たちはコーラとレモンサワーで、クラシック音楽に乾杯した。
テーマ:音(文字数:955)
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