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その顔におしぼりを。

子どもの頃の話だ。どこか外食に行くと、父はきまってまずおしぼりを自分の使いやすい形に手早く折りたたんでは、おでこ、両の頬、さらに、もう一回表裏を返して折りたたんで、下から上へ顔全体をしっかりと拭いて、それをさっと細く丸めて手元に置き、「いやぁ」と歓喜の声を上げたあと大きな声で愛想よく店員を読んでビールを注文する。母はあまりいい顔をしていなかったように記憶しているが、父はまったく意に介さない。

示し合わせたように絶妙のタイミングでテーブルに届くビールを、乾杯の合図もそこそこにぐっと一口飲むと、もう一度「いやぁ、うまい」と歓喜の声を上げて、ようやくひとつの儀式を終える。

キンキンに冷たくても、程よく温かくても、固くしぼられたそれらおしぼりは最高に気持ちよく、さっぱりとした顔で口にするビールのうまさが、「いやぁ」に凝縮されていたのだと思う。その清々しさを、子どもの私はある種の憧れを抱いて眺めていたものだ。
いい大人が、一日の終わりに自分へのご褒美としておしぼりで思い切り顔を拭う。そして、誰にも邪魔されることなく、よく冷えたビールの最初の泡立ちに口をつける。そんな儀式が、頑張っている大人にだけ許される特権のように感じられ、羨ましく感じられたものだ。

しかし、である。憧れの大人に近づくにつれ、飲食店のおしぼりで顔を拭くのは、不衛生なおっさんの残念な行為というイメージのほうが強いことを知ることになる。それへの嫌悪感にはある程度の幅があるようでもあるが、中には顔、首はおろか、脇の下、果ては足まで拭く剛の者もいるとかで、さすがにそこまでいくと生理的な嫌悪感を抱かれても致し方なし、といのは当然なように思える。

生理的な嫌悪感というのは、ニュアンスが非常に難しい。生理学的に検証されたものではなく、どちらかといえば心理的、哲学的、さらにいえば認知科学的な広範な問題ではなかろうかと思ったりもするが、いずれにせよ、「生理的にダメ」というのは、もう否応もなく絶対にNG、ということを相手に伝える最後通牒として使われる。

あるいは、「おしぼりで顔(もしくはそれ以外の部位)を拭く中年男性」というひとつの記号が示唆するものはなんなのだろう。メガネを額まで上げて、脂ぎった顔を拭く。上司も部下も、部長さんも課長さんもお客さんも、父ちゃんもおじちゃんも近所の兄さんも。その集団的な光景の異様さ。生物学的かつ、それこそ生理学的に、一定の年齢を迎えると分泌される2-ノネナールつまり加齢臭をはじめとする「不衛生的ななにか」への無頓着が許せないのか。それとも、そもそもおしぼりという、どこから来たのかわからぬ不審物を無警戒に直接皮膚に使用することへの、過剰に先鋭化した衛生学的危機感なのか―。

そうか。あのきらきらとした大人たち、家族を養い会社で戦う男たちの無邪気な至福の時間はNG、なんだ。勇気のない私は、長じて、おしぼりで顔を拭くあの特権を行使することはできなかった。そうすることで失うものにどれほどの意味や重さがあるのか、といささか疑いながらも、ことさら人前ではおしぼりで顔を拭かなかった。

だが、ほんとうは知っているのだ。ある日個室でこっそりおしぼりで顔を拭いたとき、その日それまで過ごした時間のすべてが浄められ、この布切れ一枚が、この世の憂さを脱ぎ捨てた晴れやかな「無」の世界との結界の役目を果たしているということを知ってしまったのである。
要はものの見方、である。おしぼりで顔を拭く側には拭く側なりの浄めの儀式が存在するのだといえば、それは幼い日に眺めた父の「いい顔」を擁護するつまらぬ理屈だと一蹴されてしまうだろうか。(了)

Illustration by VividStroke,Pixabay

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