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1980年、中学三年生、広島の夏 ひとり旅 ②

高校三年生の8月4日のことでした。東京を22時過ぎに出発をする、夜行大垣行きに乗り広島に行きました。当時の私には、広島に原爆が落とされたことに対してわからないことが多すぎました。私は、自分の目で確かめようと思いました。

私の叔母(母の妹)は、戦後まもなくアメリカ兵と結婚をしてアメリカに渡りました。その叔母からは定期的にアメリカの服やお菓子が届きました。また、私の父の実家が横須賀にあり、私が子どものころの横須賀は大きくて陽気なアメリカ人がたくさんいました。そのアメリカという国がどうしてあんなひどいことをしたのか不思議でなりませんでした。

私は、広島に行くために8月4日、23時半ころに東京を出発する、東海道線の夜行大垣行きに乗りました。岐阜県の大垣駅まで行く夜行の各駅電車で、普通の4人掛けのボックス席の電車です。懐かしいオレンジと緑の電車です。今はもうありません。

大垣行きは少し変わった電車でした。東京駅を出発する下りの最終電車です。車内は、仕事帰りの酔っぱらったサラリーマンと、お金のない若い旅行者が混在していました。それが小田原駅を過ぎるとサラリーマンの姿消え、若い旅行者だけになります。翌朝、大垣駅に着くまで、座れた人は椅子で眠り、座れなかった人は電車の床に新聞紙を広げて眠る、そんな電車でした。

朝の6時過ぎに岐阜の大垣駅に着きました。そこから普通電車を乗り継ぎ大阪まで出ました。満員の通勤電車だった記憶があります。さらにそこから電車を乗り継ぎ広島駅まで行きました。もちろん、お金がないのですべて普通電車です。分厚い時刻表のページをめくりながら電車の乗り継ぎを考えました。

広島駅についたのは午後でした。その日は疲れてそのまま、ユースホステルに入りました。ユースホステルは安くて安全に泊まれる宿として若い旅人であふれていました。ユースホステルには、ペアレントと呼ばれるオーナーがいて、旅人を温かく迎えてくれます。今よりも日本全国にたくさんありました。今でも世界中にあります。当時、中学三年生の一人旅には最適の宿でした。(つづく)

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