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引き受けるのはやめられるの?
共同通信の記事がヤフーニュースでトピックになっているのを、いつもの「はこぶね行政書士事務所」さんからのお知らせで知ったという次第です。
「男らしさの押し付けやめよう」 国際デー前に都内でシンポ
男性の生き方に目を向けジェンダー平等を目指す「国際男性デー」(11月19日)を前に、国際協力非政府組織(NGO)「ジョイセフ」は17日、東京都内でトークイベントを開いた。約60人が参加し「男らしさを押し付けるのをやめよう」との声が上がった。 日常にある「男だから我慢するべきだ、頑張るべきだ」という風潮について、埼玉大ダイバーシティ推進センター特定プロジェクト研究員の堀川修平さん(性教育研究)は「それが当然、という社会はしんどくないですか」と問題提起。「『男の子らしく』といっても、いろんな子がいる。『らしさ』の押し付けをしないことは、今日からでもできる」と呼びかけた。
内容的に全く異論はないんだけど、「らしさ」からの解放ってアレどうやるんだっけと疲れた頭で考えて全く出て来ない。なんかここんとこずっと疲れ切ってて本当に弱っててなんだけど、相談しても何の解決にもならなくてそれよりやらなきゃいけないことがあって、でもそれも集中しきれないから自分がどんどんダメ人間みたいに思えてきて、様々な要素が複合的にあるときに降りるって病気になるでもしなきゃ無理だろ現実として、って思った。ってゆーか降りられるもん一個でもあんのか。
こんな思考さえ「らしさ」実現のため押し付け/引き受けてしまってるというのは分かるしその通りだしむしろおれがいかにも言いそうなことなんだけど、じゃあ実感としてそう思えるかってまた別で、ああおれ全く今わかんねーわと混乱。記事、短けえし。この記事のどこに「How」が書いてあるかというと書いてはなくて「らしさの押し付けをしない」っていう末尾はスローガンであって、段階的にどのようにたどり着けばよいのかはこのイベント紹介記事を読んでも分からない。そこは、お話を聞くしかないのだろう。
そもそも自分の大変さが「男らしさ(引き受け)」由来なのかという点でよく分からない。他人のも分からない。リンゴの気持ちはよく分かる。女性学が「被抑圧/被害」をベースにしたのと対照的に男性学が「抑圧/加害」ベースで始まって(とずっと感じていた)、自分問題としての捉えにくさ、「自分のため」という分かりにくさが拭えなくて、どうしたもんだろとグルグル考えていたときとはちがう。男性学は男性が「自分のため」と意識する難しさという壁があって、そこを嚙み砕いて分かりやすく語ろうとすると「異性といかに良好な関係を作るか」、「そんなんじゃモテないゾ☆」的な気持ちわりーやつががチラチラして、ぼやけていく。「変わる」メリットをそこに置いてはいけないのに、そんなゴール設定するしかなくて、しかしそれをするがために分かりにくくなる問題があった(と感じていた)。そこからの脱却ができるのかが多分キモで、それができているのか「現在」が分からない、という「分からなさ」あるいは警戒心がある。第一人者みたいな人たちはもちろんそうじゃないけど、市民講座とか相談窓口とか人権相談みたいなところに降りてきたときに、「女性というトロフィー」をチラつかせるんじゃないか的な(それは後退である)危うさをまだ感じていた初期から、どうなったのか。ちゃんと振り切って「被抑圧/被害」ベースで語るしかないよ多分、そこは同じにしないとダメよきっと、という、「迂回したまま道外れっぱなしになるぞ」という気はする。そっちでしっくり来るのは澁谷知美さんで、性被害について説明するのに「男性被害」で語ることを続けていて、それは必然的にそうなるしその角度からが正しい、と思ってる。
おいひでえメモだな。書き直さなきゃね。でも昨夜の「あれ、おれ分かんない」という不安は、もっと危機的で、根源的な怖さだった気がする。以前は分かってた、語りさえした、でも今は脳が全く動いてない感じ。「頑張らないって実現可能なの?」というトコから、進めない感じ。
頑張れば「頑張らない」ってできるようになる?
そういや、おれトラウマあるんだよな。順路としてそれが正順でも「男性の被抑圧」から語り始める難しさに。「男性の被抑圧」を語ることは「女性の被抑圧」を無化することではないんだけど、誤解されたことがあって。時間が経ったということなのかな。分からない。今は攻撃されずに語れるようになったんだろうか。それを感じるために出かけて行く、のはアリだ。
気分的には全然、出かけたくないけど。
でもおれのまだマシな部分って上の太字の部分は今書けてることなんだろう。夫で父親でという立場にあるときに、おれ(単身者)みたいなこと書けんの、って考えたら多分「無理以前にも」書いた後でどうするどうなる問題があって、妻や子が心配したらしたでフォローすることに頭が行くだろうと想像してる。匿名なら書けんのかな。おれ匿名じゃねーから分かんねえな。ってゆうか匿名であってもほとんど誰も書かねえじゃんね。お年寄りまで元気いっぱいで。毎朝勃起で目が覚めてそうなご様子で。ダウトなんだけど。
おれだって現実問題として思うもん。おれが今苦しいですって言って、死にたいですって思っているとして、騒ぎになって、たぶん中心的に頑張るのおれだろうなって。だったらしたくないって。結局そっちが楽だって思うのは周囲に対する軽視じゃない。余裕がなさすぎて切実に大変なのを避けたいという純粋な気持ちだ。笑ってるのって一番楽じゃん。今のおれ「楽になっていいんですよ」とか言われたら悪意なく鼻で笑いそうなんだけど、そんな状態で病院行っていいのかなとか、そういうキブンってリアルじゃんね。これは常態の「死にたい」であって今ひとまず大丈夫だから騒がないでもらっていいですか会社行かせてもらえませんか、とかもあるじゃんね。ココロ病むのは死なない可能性あるけど会社行かないと確実に死ぬんですがっていうね。「死んだらオオゴトになるのでどうせ死ぬまで死ねないから大丈夫です」って言ったとしてクスリもらえるんだっけ。どうすれば。ど鬱なブックレビューとか書いてんのも悪循環に輪をかける。荒れて途中でやめて「別姓」書いてたんだもん。あれも大概だけどな。
なに書いてんのおれ。これいいの出して。それさえもう。現時点でおれが考える落としどころとしては、「男らしさ」はバンバン記号化した方がいいと思う。ファッション化、「なんちゃって」感、遊ぶ記号。そして自分で(なんちゃってでやっているという)それを理解していること。ゲイが自然発生的に無思想でやってきた感じに近い。表出的にフェミニンを取り入れて内面マチズモな縛りがあるのは、逆だし限界が来るような。モテ非モテの文脈から距離をおきながら、「さて男の子を今日も演じ切りますか」と、遊びのように「男」をまとう……のかな?
でもおれのは「男らしさ」問題だっけ。やっぱちがうような。「おれ問題」に寄り添ってみたい。でも自分って敵でしかない。しっかりこんな問題に相応しい画像がハードディスクに保存されてたとか、おれは・おれが・大嫌い(と言ってみる)。なんでこんなん撮影してんだよ。なんの準備だよ。
昨日、今日とワイシャツの上にピーコートを羽織った。無造作を装って、少しルールと距離をおく。気が回らない、無邪気な人間に見える。つまり幸福そうな。異端でありつつ無警戒でいられる人物はどう座るだろう、どう歩くだろう。パンのかじり方、笑い方。いくらでもやれちゃうよ。習い性だからな。おれの場合は「そんな人間になりたかったから」だけど。
11月19日、「人々逝く」って覚えればいいのか。国際男性デー。