
「うちの息子はたぶんゲイ」おくら著
完結した……だと……?
「きのう何たべた?」だの「弟の夫」だの「うちの息子はたぶんゲイ」だの、パートナーがおれに読ませるんですよね。何の教育だ全く。憤然としとるわけですよ。だからこっちからは「作りたい女と食べたい女」をオススメしてやったわけですよ。ドラマまで観ているらしい。ふふ。どうやら気に入ったらしいので満足してマス。
しかし本日パートナー氏から渡されたのは「うちの息子はたぶんゲイ」の最終巻(全5巻完結)。いや待て、まだ終わらせんぞ……え、マジ終わんの?
「ゲイであることを隠したい高校生の息子」をもつ母。
とにかくこの息子が「無防備」「脇が甘い」「隠し事ができない」……どう言おうが同じことである。そうしたすこぶるザルな危機管理能力であるにも関わらず、一丁前に知られたくないし知られていないと思っているところが説教待ちである。しかしそこは社会に蔓延する強固なヘテロ・ノーマライゼーションに(皮肉にも)救われ、気づいているのは母と弟のみで、奇跡的にも学校の友達や単身赴任の父は察知していない。
いますよねこういう子。全国の中高生を息子にもつ親御さんたちお疲れ様です。ただまあ慰めと言ってはなんですが、こういう子は味方を得やすいですよ。多分。
日々是トラブル。
当然このザルがやらかしまくり、その度に母や弟の前で起死回生のウルトラCで乗り切っている(つもりでいる)。




この物語には舞台として「ゲイであることを隠さなければならないと子どもが感じる社会」が設定されている。その上で「隠そうとする子」と「自分を受け入れることを子に励ましてやりたい親」という逆転が用意され、そういう意味では少し未来の感覚もある。思春期のジタバタやそれを見守るオタオタという普遍的な青春物語の中で、作者は多くの登場人物が誰ひとり悲しくならないようにと祈りながら、「にもかかわらず」おかしみもたたえた人の世を、優しいまなざしで見守っている。読者はこの不器用な少年の成長をついつい祈りながら、――いや待て、ちょっと待て。
最終巻まで読んでやっと気づいたけど、主人公この子じゃなかった……
やられたなあ、そうだったのか。何をもって主人公とするかという話でもあるけれども、私は物語に主人公の成長を求める。冒険があって、旅の終わりに主人公が成長していることが私にとってとりわけ重要である。しかし「うちの息子はたぶんゲイ」においては、あくまでもこの子は狂言回しであって、このザルによって周囲が感じ・気づき・学び・成長していくのだ。
「これはLGBTの子どもに早すぎる成熟を求めて寄りかかる大人社会へのアンチテーゼだ」などと言うつもりはないし、たぶん作者にもそういう意図はない。ただいつも主人公にされがちなキャラクターをここでも/いかにもそう見せかけながら、決して導師や戦士の役割を課さず、ただの子どもの、モラトリアムが許されてよい季節を見守っている。そして作者の思いは周囲の人たちに優しく温かく開かれていて、そんなエールが終始心地よかった。