落札した中古服を自分ブランドにする
思いついて、洋服のタグを作った。こんなものがオーダーできる。
「アルファセキュア」の部分は字面的にカクカクしている文字列にしたかっただけ。何でもいいと言えば、何でもいい。それっぽければいい。でも自分のネームが入った。これだけで、自分の服になった気がする。
着ないまま放置していたコートだった。ヤフオクで見かけて、サイジングもデザインも好みだったので落札したのはいいが、届いてみると某ブランドの偽物じゃないかという気がして、着たくなかった。「あいつは偽物を着ている」と言われるのはいい。むしろ面白い。そもそも自分だって何かの偽物だと思っている。だがせっせと偽物を作っている人が好きじゃないのだ。そういう商売を支えたいとは全く思わない。支援はしたくない。捨てなかった理由は、未練だ。単にサイズやデザインはよかったし、「サイズ感やデザインが好ましい」という出会いが少ないからだ。
既製(吊るし)の服がニガテである。理由は体型と好み。私の場合は肩が合わないし、そもそもゆったりな服が好きなのでドレープが楽しめないようなここ数十年のモードに合わない。オーダーするという方法もあるけれど(がっちりな皆様には赤坂のROLY-POLYがおススメです)、自分のサイジングを把握していれば、ヤフオクで出品物のサイズをみて落札することもできる。だが当然、ヤフオクなんてガッカリの連続になりがちだ。失敗もある。
肩幅が合っていてもアームホールにゆとりがなくてフィットしないとか(アームホールについての記載をヤフオクの商品説明で見ることはまずない)、破れていたとか、それこそニセモノであるとか。出品者が公然かつ昂然と「NC/NR」という「クレームいうな返品すんなルール」を敷くヤフオクでは、切ない思いをすることも、ままある。
先に「ブランドの偽物を着てると噂されたらそれはそれで面白い」と書いたけれど、実行にはもちろんリスクが伴う。スノッブと思われるだけでは済まない。スノッブを演じるのは遊びとしては面白いけれども本当はスノッブでもないし、そう見られるのも心外なのだ。丁寧に選ばれた生地や確かな縫製は「長く大切に着る」ことに不可欠で、だから私はブランドの価値を認める。だが決してブランド志向じゃないし、崇拝もしてない。むしろハイブランドが打ち出すモードは本当に「私にとっては」不要なものだ。モードじゃねえのよ。そこは本当にどうでもいいし、体型的にはむしろ邪魔なことこの上ないものだ。だって私はモデル体型じゃない。私は中年男性を絵にかいて額に入れて粗大ごみに出したくらいモデル体型じゃない。モードいらねえ。ただ長く着られる、自分に合う、好きになれる服が必要なんだ。それだけだ。じゃあこのコートをどうするかである。そこで「自分ブランドだよ」と遊びでタグをつけたらアラ不思議。なぜか急に、そのコートが愛しく思えた。都会で暮らしてもソフィストケイトされなかった自分。本物になれないまま終わるかもしれない自分。このコートみたいなもんだ、と思う。
タグの縫い付けはリフォーム屋さんで、気難しいことこの上ない高齢の女性にお願いした。「確かにこれは自分じゃ縫い付けられないねえ」と頷くリフォーム屋さん。「500円かな。それで大丈夫よ」と言ってくれた。ありがたい。
「でも大きいじゃないの。着丈も袖幅も。それでいいの」
「いいの。わざとそうしてる。こういうのが好きなんです」
「そうなのねえ」
「流行りじゃないもん着る人間が。流行りじゃなくていいんです」
「ごめん聞いてなかった」
いいなタグ。刺繍された言葉はダサいけど、それを含め自分っぽい。
どう転んでも自分だ。肯定できるなら肯定してやりたいもんだ。
「あなた、これアルマーニじゃないって言ってたけどさ」
「そうスね。こんなタグあるのかなあって」
「それは分からないけど、アルマーニって縫製が特別なのよ」
「ほう」
「確かなことは言えないけど、これはアルマーニの縫い方よ」
えええ何それすっげえ面白い。そしてリフォーム屋さんカッコいい。
プロフェッショナルの言うことは、本当に本当に面白い。
自分が本物か疑いながら生きていこう。
本物になれる日だってあるかもしれない、そんな人生のいたずらも思いながら。