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地理旅#13 「モンゴル編~ALWAYS MOVING」(2024.7)
朝日を目指してモンゴルの広大な大地の丘に登った。標高1,500mの高原は、一日の中に四季があると言われるほど日較差が大きい。遠くに見えるのは、地平線なのか稜線なのか。時折聴こえる家畜の鳴き声以外には遥か彼方まで音のない世界。風が吹くと、まるで歴史そのものが動き続けているかのような感覚が掠める。
我々日本人にとって、モンゴルと言えば何を思い浮かべるだろう。チンギス・ハーン、遊牧民、相撲・・・。分かったつもりになって、知らぬ間にモンゴルのステレオタイプを押し付けていた感が否めない。地理学徒として、現地・現物・現人に触れ続けることの重要性を改めて戒める旅となった。
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2300年の景色
滞在したモリンド・ツーリストキャンプは、観光地化されていない大草原に位置している。紀元前3世紀、モンゴル高原に登場した匈奴をルーツとして、13世紀のチンギス・ハーン率いるモンゴル帝国は歴代史上2番目の大きさを誇る巨大国家として世界を席巻した。その強さの秘訣は、人心掌握に長けた都市経営と、何よりモンゴル帝国が騎馬民族であったという点にある。余談だが、人口密度が低く風が荒れ吹くモンゴルでは疫病が流行りにくかったというのも一因とされている。
それにしても、1日に150kmも移動できる馬を巧みに手繰る騎馬民族は、農耕民族からしたら脅威的だっただろう。とはいえ、平時には遊牧民と農耕民族は持ちつ持たれつの関係であった。東京外国語大学・岡田英弘名誉教授は、モンゴルの遊牧民族を次のように解説している。
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60年間も遊牧民を続けているお父さん
モンゴル高原の遊牧民が統合されると、すぐに征服戦争を始めるのには理由がある。もともと遊牧という生活形態では、平時には団結の必要はあまりない。年間の降雨量が少なくて、草の生えかたがまばらなので、一箇所に定住すると、家畜がすぐ草を食いつくしてしまって、生活が成り立たない。そのため春、若草のころから移動を始め、家畜に草を食わせながら、夏から秋へと草原をゆっくり移動して、冬になると南向きの谷に入って冷たい北風を避ける。この移動しながらの牧畜が遊牧である。移動といっても、むやみやたらに動き回るのではなくて、越冬のための冬営地と、避暑のための夏営地とがきまっていて、その間を往復するのが普通である。
遊牧生活はこうした性質のものなので、一箇所に人口が集中すると、草の量が足りなくなって、生活を支えるのに十分な数の家畜が飼えない。そのため一緒に遊牧するのは、せいぜい数家族どまりである。言い換えれば、遊牧民が暮らしていくためには、大きな組織や社会の統合は必要がない。家畜だけあればいいのである。だから独立経営の遊牧民は自由で気位が高く、農耕民が共同作業の植え付けや灌漑や取入れのために、組織への屈従に甘んじなければならないのとは、大違いである。
そうした遊牧民が団結する契機は、農耕民との交易であった。人間の栄養には、肉や乳製品ばかりでなく、カロリー源の糖質も必要だが、乾燥したモンゴル高原は農耕に適せず、穀物は手に入らない。また養蚕ができないので、衣類を作るのに必要な絹織物も手に入らない。そこで遊牧地帯と農耕地帯の境界で交易が行われるのだが、その場合、交易市場に遊牧民が持って来る商品は、先ず馬である。
(ちくま文庫)
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北風を避けるために背後の谷へと移動する
その繁栄も永遠ではなく14世紀末には明朝に取って代わられた。その後、歴史に再びモンゴルの名前が登場するのは1911年である。ソビエト連邦統治下に置かれて影響を受けつつも、現代に至るまでモンゴルは独自の文化を維持している。遊牧民の伝統は今も生き続け、多くの人々がゲル(伝統的な移動式住居)で生活している。ゲルは解体すると500kgにも及ぶ。以前はラクダで牽いていたが、今日ではトラック移動に取って代わられた。遊牧を続ける老夫婦2人の元に、夏になると都会に出て行った家族や親戚が乳製品づくりの手伝いに訪れて賑わいを見せていた。カルピスの原型でありモンゴル人の夏の風物詩でもある馬乳酒をあおると、寡黙が美徳とされる遊牧民のお父さんも微笑んで見せた。
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そしてバイクと近代化している
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1000頭を超えると勲章がもらえるらしい
(過放牧対策とは逆行するような気もする・・・)
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ホルホッグは極上のモンゴル料理
定住化する人々
草原を後にして、首都ウランバートルへ。1月の平均気温は-21.3℃であり、歴代では-43.9度を記録した。世界一寒い首都だ。一方で、夏は最高気温39度を観測したこともあり、気温の年較差は想像できないくらいに大きい。
それでもこの地に首都が置かれたのは、4つの山、2つの川、タイガ、そして湖に恵まれたステップ気候であり、都市建設に格好の環境であったためだ。16世紀にチベット仏教がウランバートルを統一して以来、モンゴルの中心地として存在し続ける。
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ウランバートルの歴史は始まった
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ウランバートルの街を歩くと、旧ソ連時代を思わせる集合住宅や広い道路、そしてモニュメントが目に付く。そもそも、この都市の語源は、「ウラン=赤(共産主義)+バートル=英雄」なのだ。
面積が日本の4倍あるモンゴルの人口は2022年現在で約345万人、うちウランバートルは約50%の170万人に達し、人口増加は留まることを知らない。日本の平均年齢は48.4歳である一方、モンゴルはなんと26.6歳。街を歩けば若者ばかり。活気が違う訳である。
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チンギス・ハーン(奥)
"赤い英雄"の成長痛
鉱産資源やカシミアの輸出などで外貨を稼ぎ、毎年の成長率約7%のモンゴル経済。好景気の最中にあるウランバートルであるが、インフラには大きな支障をきたしている。
朝昼晩の慢性的な交通渋滞、人口増加による火力発電の拡大、これらに伴う大気汚染、排水設備の不足による洪水、停電など課題山積である。
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市街地から一歩外に出ると、ゲル集落が混在する風景が広がる。地方から首都へやってきた人々の多くはゲル地区に住んでいる。その理由は単純で、安価だからだ。この地区では、貧困やアルコール依存、家庭内暴力といった問題も絶えないという。成長し続ける市街地と郊外のゲル集落との経済格差は広がるばかり。ソ連崩壊後の自由経済化による歪みの最前線である。
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都市の外に目を向ければ、過放牧や気候変動、建設用砂利の過剰採取による砂漠化も深刻だ。古来から自然の持続可能性を考えてきた遊牧民たちの草原にも、資本主義の波が押し寄せているのを肌身で感じる。政府は「10億本の植林」プロジェクトを推進するが、莫大な国家予算をかけて実現できるか懐疑的な見方をする人々は多い。
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逃げるは恥どころか役に立つ
日本では「逃げることは恥」とされてきたが、モンゴルでは異なる。彼らは遊牧民であるが故に土地に執着せず、不利なときは草原を逃げ、有利なときは攻める歴史を繰り返してきた。モンゴルの知恵は、逃げることも重要な戦術である。
現地在住歴が長い日本人から口々に聴こえてきたのは「やるとなったら、すぐやる」というモンゴル人の瞬発力だ。この勢いと決断力に日本人は敵わないそうだ。他方、「石の上にも3年」的な言葉はモンゴル人には響かない。ウランバートルは空前の建設ラッシュであったが、工事が頓挫しているような高層ビルが数多見えたこととも無関係ではないだろう。
日系の建設業やJICAも訪問させてもらった。越境し、互いの強みを活かしながらコラボレーションすることがシナジーを生み出すのだと改めて感じた。
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モンゴルの外交は、侵略の歴史を繰り返してきた隣の大国・中国とロシアと一定の距離を保ちたいというのが基本路線だ。2015年頃には永世中立国化を目指したが、政策は頓挫した。
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常に監視する意味で目を閉じない魚が描かれている
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中国・北朝鮮の方角を向いている
他方、中心市街地の程近い一等地に中国・ロシアの両大使館が置かれ、輸出相手国はケタ違いに中国依存、エネルギーはロシア依存している。事実、モンゴル経済は中国・ロシアと運命共同体なのだ。
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モスクワと北京をつなぐシベリア鉄道
そこで、モンゴルは2つの大国からの脱依存を目指し、日本・韓国・アメリカといった「第三の隣国」との関係を発展させようとしている。街中で走る自動車は体感的に約半分がプリウス中古車であり、コンビニやスーパー、飲食店やファッションなどは韓国資本が目に付く。特に、韓国政府は毎年25,000人のモンゴル人労働者を受け容れることを表明しており、日に日に存在感を増している。街を歩けば「アニョハセヨ」と声をかけ続けられた。
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ALWAYS MOVING
ウランバートルでは、モンゴル国立大学の学生たちに街を案内してもらった。日本語と文化を学びに留学に来るらしい。モンゴルの若者は海外志向が非常に強いそうだ。アメリカやカナダ、オーストラリア、韓国、中国、そして日本。その多くは、留学後に祖国モンゴルに戻り、山積する課題解決のためにビジネスを興すのだそうだ((Shah et al., 2020, (Imideeva, 2021ほか)。
世界中で引用されている異文化理解の指標・ホフステードの6次元モデルにおいても、モンゴル人は個人主義的で不確実性への許容度が高いことが分かっている(Bolormaa et al., 2020)。
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聞くより見るほうがいい。
座るより行くほうがいい。
モンゴルには「移動」に関する諺がたくさん存在する。若者たちが世界に飛び立つ文化的土壌があるのだろう。先行きが見通しづらいVUCAの時代、日本人が遊牧スピリッツから学ぶことは決して少なくない。
モンゴルの歴史は、常に動き続ける風のようなものだ。匈奴からモンゴル帝国、元朝、ソ連時代、そして現代に至るまで、その歴史は移動と変化の連続体である。風に吹かれながら大地の歴史と人々をめぐり、"ALWAYS MOVING"を感じる旅となった。
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