杉本真維子『点火期』(思潮社・2003年9月刊):詩集の話
書評なんていう仰々しいものではなくて、あくまで自分ごとに絡めて詩集を紹介していきたい。
杉本真維子さんの『点火期』は、第40回現代詩手帖賞の受賞後に刊行された第1詩集。
2000年から2003年にかけて詩誌を中心に投稿・発表された詩が20篇収められている。(巻末の初出一覧による)
刊行は2003年9月だから、僕が高校生当時に詩のような言葉を書き始めたころにはもう、この詩集は完成して世の中に出ていたことになる。
そう考えるとなんだか不思議だ、不思議なことなんかぜんぜんないんだけど。
『点火期』という詩集タイトルは杉本さんによる造語だろう。
収められた20篇のうちの1篇が「点火期」というタイトルをもつ、これは表題詩とよばれるものだ。
(ちなみにWikipediaには「点火時期」という項目があるが、これはエンジンの内部機構についての用語だから詩とは関係がない)
「点火」とは何かに火をつけることで、行為としては一瞬ないし数秒のこと。
それが「期」と、ある程度の幅をもった時間の皿に受け止められているのがおもしろい。
意識的に、なにかに火をつけてすごした期間のことなのだろうか。
それは実際の火ではなく、自身の内面的な部分について焚き付けた時期なのかもしれない。
「点火」には「内燃機関を始動させる」という意味も含まれる。どちらにせよ、とても興味深い。
表題詩「点火期」、まずは冒頭2連をひく。
(詩においてはひとつの文章のかたまりを「連(れん)」と呼ぶ)
こういった表現をどうやって読んでいくかが詩のたのしみだ。
この冒頭部分だけでもう、僕はおもしろくてしょうがない。
「沸騰する舌がうらがえるのを/阻止しようと冷えていく」と言われたら「あーっ!あるある、それあるよね!」と言いたくなる。
たとえわからなくても、読みにくくても、その都度で立ちどまらずにいったんは最後まで読み通すのが詩を鑑賞する作法でありテクニックだと僕は考えている。
だけど今回はちょっと、あえて一時停止しながら分析してみたい。
最初の2行「沸騰する舌がうらがえるのを/阻止しようと冷えていく」は、そのあと3行目に登場する「歯」の修飾語なのか否か。
僕自身はずっと、否の立場で読んできた。
「歯」の前にひとこと、「そこに」が隠れているイメージ。
「沸騰する舌がうらがえるのを阻止しようと冷えていく(歯)」があったのではなく、「沸騰する舌がうらがえるのを阻止しようと冷えていく(私)」がいて、「(そこに)歯があった」との解釈だ。
どうだろう?
どうだろう?と聞かれても困るに違いない。
そもそも詩においてこのような文法的な分析はほとんど不毛な行為のだから。
「濃度はあがって、」にだけ打たれている読点の謎にも注目したい。
(これは詩作において僕自身もやることで、自分の場合は朗読の際の演奏記号みたいなものだと考えている)
表題詩「点火期」の2連目〜3連目はこう続く。
ほらほら、「放課後」「教室」と具体的なキーワードが出てきたでしょう。冒頭で読むのをやめなくてよかったでしょう。
2連目〜3連目になって、この詩は学校でのことが描かれていることがわかるのだ。
僕の読み解きでは小学校低学年の、髪を伸ばした女の子の姿が浮かぶ。
クラスでちょっといじめられていて、負のエネルギーを日々溜めこんでいる姿。
女の子ではなく男の子である、と読んだ方がいたらぜひ教えてほしい。
読みには正解も不正解もないのだから。
自宅から持ち出したのか、理科室からくすねたのか、中身の入ったマッチ箱。
その瞬間こそ描かれないものの少女(少年)は、誰もいない放課後の教室でマッチを擦った。
点火したのだ、何かに。
いやいやいや。すべては未遂で、その葛藤をあらわしたのが1連目〜2連目にかけてなのか。
「沸騰する舌」や「瞼の裏で揺れる揺りかご」は怒りの感情のことか。
3連目「来ただろうか/いまだに/古い倉庫の夢ばかり見て/泣いている」とはどういう状況なのか。
誰が来たのか。
いじわるなクラスメイトに倉庫に閉じこめられたことがあるのか。
いまだに、ということは、この部分だけは成長した自分が語っている視点なのか。
僕は解釈の幅のある詩が好きだ。死ぬほど深読みして全力で誤読したい。
「点火期」の締めくくりまでをひく。
「あかくて/まるい」とはマッチの頭のイメージそのものだ。赤いままだとうことは、火をつけてはいないということか?
詩はおもしろい。こんなに少ない文字数なのに読めそうで読めない部分がある。
現実と虚構が巧みに入り混じっている。
1行あけて最終連は「わたしの頭/永遠に来ない/垂直に降る」と締められる。
1行あいてるのが、また、謎を呼ぶ。
前の連「あかくて/まるい」から繋がっているのか、否か。
「あかくて/まるい」のはマッチではなく、怒りに震える「わたしの頭(顔)」のことなのか、否か。
永遠に来ないのは満足感か、救済か。
垂直に降る(頭)と提示されると斬首台のことを思い浮かべてしまうし、現在ならば罪に対する社会的な制裁にも受け取れる。
この詩のなかでいちばんわからない部分だ。
ここからはテキストから離れた個人的な感想。
この詩「点火期」の語り手である少女(少年、あるいは成人した女性ないし男性)は、他者と自己の違いや境界線を感じとることを苦手とする特性を持っていように思えてならない。
身のまわりにあるものや空間自体との境界も曖昧なのかもしれない。
放課後の教室、マッチで何かに点火したと思われるそのあとの、舌足らずな物言い。
自分を救うための行為がさらに自身を追い詰めていった可能性も否めない。
取り返しのつかない行為。その真相は明かされないまま、お咎めもないまま、時だけがたってしまったのか。
僕の飛躍した読みで映像的に捉えれば、この「点火期」という1篇は「過去のネガティブな体験を抱えたまま成人した女性ないし男性が、専門家を相手にしたカウンセリング中に語った言葉」で。
シーンの最後は、窓のない無機質な部屋で蛍光灯に照らされた不健康な顔面が映し出されて終わるのだ。
記録用のビデオが捉えた一部始終のようにも感じられる。
小学校低学年の子どもの発言とは思い難い乾いた語り口は、そのように読み解くことで腑落ちへと誘うことができる。
「点火期」の次のページにつづく「発色」という詩は、少年が持つ未熟で純粋な暴力性のようなものが垣間見える。
「言葉で/なぐりつける」とあるが、受ける印象は血生臭い。飛び散った飛沫は本をはみ出し、読者の顔面にまでこびりついてきそうだ。
ほかにも「甘い芽」の最終連。
「ひまわり」の第3連。
と、日常に潜むバイオレンスな展開が目につくのがこの『点火期』という詩集の魅力だ。
「船が心臓を/むかえにくる」に関して僕はまた「あーっ!あるある、それあるよね!」という感想をもつし、「ひまわり」の「殺れや!」でいつも笑ってしまう。
なんだか北野武監督のヤクザ映画みたいで、指詰めを強要されているシーンみたいでいつも笑ってしまう。
最後に1篇、詩集『点火期』から好きな詩をあげる。
それは「家」という作品。冒頭の連をひく。
個人的な経験だが、僕が生まれ育った実家はそれなりに由緒ある本家で、正月には親戚や知らない人々が無数に訪れた。
僕はその状況が恐ろしかった。
三が日はほとんど、奥の冷えっ切っ和室にひとり引っ込んで過ごした。
本来めでたく、あかるいはずの正月の居心地の悪さをいまでもよく覚えている。
この詩「家」が、正月の来客に対してポジティブ/ネガティブどちらの感覚で書かれているかは明確には判断しかねる。
しかしながら詩集『点火期』全体を貫く不穏で物騒なトーンを鑑みれば後者であると判断するのが妥当だろう。
なんだか読み手の生育環境をあぶり出す試験薬のような詩だ。
以下のとおりに締めくくられる。
みんなが他人になっている非日常の描きかたがすてきだと思う。
空気がゲル状に変化した空間を移動したらこうなるかもしれない。
自分以外のすべてが、つくられた架空の存在のように思える感覚。
名前をあげていくところはまるで、映像の再生スピードを徐々に落としていったときの音声だ。
「みんなあ/ちがう家のお/ひとなんだね」
やはりこの子(あの子と同じ子であるならば)他者と自己の違いや境界を感じとることが苦手な症状を持っていように感じられて、とても愛らしい。
「ひとなんだねえ」ではなく「ひとなんだね」と、急に冷静さが感じられるのがよい。
読者のほうを向いて笑いかけてきそうで。気味が悪いがクセになる。
※杉本真維子さんの第1詩集『点火期』(思潮社・2003年9月刊))は現在入手困難な1冊です。収録作はすべて『現代詩文庫 杉本真維子詩集』(思潮社・2024年9月刊)に全篇収録されておりますので、そちらをお買い求めください。