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青松輝純粋一首(全文無料)

シャンプー 僕は自殺をしてきみが2周目を生きるのはどうだろう

青松輝「untitled」

0.まえおき

当該の一首が含まれた連作は未読です(さすがに確認してから記事をあげたほうがいいか、と思って「untitled」を注文しましたがぜんぜん届きません。青松さん、余裕があれば対応ください)
→【2024.7.27追記】届きました。青松さん対応ありがとうございました。
なお、歌集『4』も未読であることを断っておきます。それゆえにかなり純粋な一首評になっています。

1.「僕は自殺をしてきみが2周目を生きるのはどうだろう」について

初句の「シャンプー」がとても良いんだけれども、その話は最後に。まず意味を読み解きやすそうな2句目以下から読み解いていきましょう。

2句目以下。日本語の意味としてはわりあい明瞭かな、と思います。「2周目」というのが少し現代っぽい言い方で、とても老成している若い人とかに対して「あの人、人生2周目かよ」みたいな感じで使ったりするやつかと思います。シンプルに言うと「最初の人生の経験をキープしたまま生まれかわる」みたいな感じでしょうか。クリアしたゲームをもう一回やるときに「2周目」と表現することもあって、少しゲームっぽいないしはヴァーチャルな感覚がある言葉ですが、今の若い世代だとよりカジュアルに使われているのかもしまれせん。

そのうえで2句目以下。「僕の自殺」が「きみの人生2周目」に繋がるという把握がこの歌の一つの面白いところです。この因果がなんとなくだけれどもわかる気がするのは、単純に「一つの死に対して別の一つの生が生じる」というのがロジックとしてスッキリしているからだと思います。

また、それとは別に「自分の犠牲できみを救う」みたいな恋愛至上主義的な因果も受け止めることができます。自分の世代だと、この歌の「僕」という一人称とあわせて、「セカイ系」みたいな感覚を思い出します。「僕は〈自殺〉という言葉を考えてしまうくらいには、鬱屈した人生を生きている。きみも人生1周目でうまくいっていないんでしょう? 僕が死んできみに2周目をあげるよ」みたいな感じです。僕ときみが心境として近いところにいて、僕はきみに救いをあげようとしている。そういう因果はやっぱりなんとなくわかります。

ただ、この因果の接続はめちゃくちゃ強引と言えば強引で、気持ち悪いっちゃ気持ち悪くて、思い込みが過ぎるよね。というので、この歌ではもう一歩先のことまで言及していて、それが「どうだろう」という結句に表されている。断定ではなくて、めちゃくちゃゆるやかな提案もしくは疑問の提示になっている。初句の字足らずとあわせて読むと、かなり自信なさげに弱弱しく言っているようにも捉えられる。すべてが一方的な思い込みかもしれないことをなんとなく自覚していて、こういう歌のかたちになっているように見える。最終的に「きみ」なんていうのはそもそも幻みたいなもので、歌の中には「自殺を考える僕」だけが取り残されているような、そんな解釈もできる気がします。

ということで、2句目以下がそもそもかなり巧みなフレーズなんじゃないかと思います。「シャンプー」という初句のおどろき以前に、その他の手続きがばっちり決まっている。そのうえでの初句「シャンプー」について考えていきましょう。

2.「シャンプー」について

頭にぽんと置かれた「シャンプー」なので、具体的なことはわからないですが、2句目以下とあわせて考えていくとどんなことがわかる、もしくは感じられるでしょうか。

まずは音の話から。
4音で字足らずなのが先ほど言った通り、弱弱しい感じがします。「シャン」という音は「背中をしゃんとする」みたいな感じで、清潔な響きではありますが、決して無骨に逞しいイメージではないはずです。「プー」については、半濁音というちょっと情けない音で、オノマトペとしてオナラなどの空気が抜ける音として使われます。これも弱さにつながっている。4音の字足らずについてごく単純に「欠落している」と捉えれば、自殺という言葉をつかう「僕」の空虚さと響き合ってきます。第一にそういう弱弱しい、内実を伴わない呪文のようなものとして「シャンプー」を捉えることができる。

実体としての「シャンプー」を考えてみても面白いです。
そもそも「シャンプー」が置かれる場所は浴室でしょう。ここは基本的には独りでいる場所です。例えば、一人でシャワーを浴びながら髪を洗おうとしたときに2句目以下の想像が降りてきた、というのはシチュエーションとして良いな、と思います。一日の終わりに疲れているなかで、浴室でシャワーを浴びているときに、ふと思う「自殺」と「救済」というのはありそうな感じがします。
「シャンプー」を押すときの手ごたえみたいなことを考えても面白いです。頭のところを押すときのにゅるっとした感じは、結句「どうだろう」のキレの悪さだったり、そもそもの僕の煮え切らなさみたいなものとも響きあうと思います。まったく逆にそれを空のシャンプーとして考えても面白い。押しても押しても出てこないシャンプー、手ごたえのない押しごこち。そのときは僕の人生の空っぽさ、気持ちの空虚さ、生きることへの手ごたえの無さ、と響き合わせて読むことができます。
「シャンプー」を自殺のアイテムとも捉えることができる(もしかしたらこの読みが第一線なのかもしれません)。シャンプーにも致死量があって、コップ1杯分飲んだだけでも死んでしまう(らしいです)。
普通に洗うものとしての「シャンプー」と考えると、「僕」の清潔感がちょっと際立ちます。この歌での「自殺」はあまりにスッキリしていて、あまりに汚れや穢れがなさすぎる。清潔すぎる。その清潔さに現代の若者っぽさ(というと大味ですが)、を見出すこともできる。また、トリートメントじゃないというのも面白い。現代だとトリートメントまでやる人も多いと思うので、洗髪のアイテムとしては「シャンプー」単体としては不十分です。「シャンプー」にはまだ途中だよ、というニュアンスが含まれてくる……

3.まとめ

みたいな感じで、考えようと思えばいくらでも色々と考えていける、というところがこの歌の凄さだと思います。2句目以下の内容が、「シャンプー」の様々なニュアンスと接続している。そのうえで凄いのは、「シャンプー」が2句目以下の内容の妨げになっているところがあまりないように見えるところです。

この歌を受け止めるとき、みんな色々なかたちで「シャンプー」と2句目以下を、潜在的にしても結び付けようとすると思うのだけれども、その道筋がかなり多くあるわりに、そのつながりのどれもが意外とそれぞれ弱くない。そして、読み手が最初に歌を読むときに感じた「シャンプー」のニュアンスが一言で言い表せるシンプルなものではないような、ちょっと各々グラデーションを以ってこの語を受け止めるような、そんな気がする。

ということで、この歌はおそらく読み手ごとに「シャンプー」の新たなニュアンスを、それも無意識のレベルで生じさせるのではないか、そういう気がします。それがこの歌のすごいところだと思います。

以上です。

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