岡本真帆『あかるい花束』評――【後編】「あかるい花束としての私、風受ける帆としての私、はみだしていく私」
岡本真帆『あかるい花束』評の後編です。
『あかるい花束』評の前編では岡本真帆の基本的な世界の見え方を確認しました。第一に、世界を綺麗に二分化したがる傾向があるということ。第二に、そのバランスが崩れたときに違和感を覚えやすく、そして場合によってはそのバランスを取ろうとして無理やりに何かを強く言おうとする傾向がある、ということ。そのうえで、その無理やりに何かを言うときのほうが、本音ように見えて歌としての切実さは高そう、というような感じの話をしました。
後編では上記の性質を踏まえたうえで、岡本真帆が自分自身をどう捉えているのか、および世の中からどう捉えられていると自認しているのか、というところを探りつつ、
という、この1首が、読者からは少し距離を置いて自分自身のために詠まれた切実で強固な歌である、みたいなことを説明していきます。
3.大切な読者に祝福をもって手渡される『あかるい花束』
まずは歌集タイトルとして掲げられている『あかるい花束』という言葉について考えていきます。「花束」が歌集上でどんな言葉として捉えられているのかの話です。
「花束」の歌について
1つ目の歌。過去に家族同然に過ごした人がいてその人に花束をあげてみたかった、ということが話し言葉で平坦に歌われています。「ほぼ」「そんな」という意味としてややふわっとした語が、結句のちょっとわざとらしい「たなあ」という接尾語を引き立てて、悲しみとも喜びともわからない、素朴な感情というのが表現されているような気がして面白いです。ここでの「花束」は「家族みたいな大切な人に渡すもの」くらいですかね。
引用2つ目の歌。「花束」のひっくり返った円錐のかたちを「クラッカー」と喩えている1首です。クラッカーと言えば誕生日等のお祝いごとで鳴らすアイテムですね。「鳴ることのない」「静かに」という無音の表現とあわせて「夜の電車」という局面を提示することで、この歌の背後に生じる(ないしは既に生じた)であろう、花束が手渡される瞬間の賑やかな感じが対比的に強調されてわくわくします。ここの「花束」は「祝福」のニュアンスでしょう。
下の2首は前編でも引きました。これらの歌での「花束」は「祝福」のアイテムであって、そして「大切な人と渡しあうもの」で問題なさそうです。
という感じで、この歌集での「花束」はごくごくシンプルに「祝福のニュアンスをもって、大切な人に手渡されるもの」として登場していると思ってよさそうです。
「祝福」の歌について
ここでさらに1首引きます。歌集の最後の歌です。
「花束」と「祝福」が密接した語彙と考えると、『あかるい花束』という歌集がこの1首で締められていることには、大きな意味があります。つまり、歌集の最後の歌に収められた「祝福」という語は、『あかるい花束』全体を背負っているように見える。
この歌で「きみにはじめましてを」と詠っていますが、ここでいう「きみ」とはいったい誰でしょう。「はじめまして」ということは「きみ」は岡本真帆の知らない人で、かつここで初めて知り合った人、とういことになります。だとすると、この「きみ」はこの歌集を読み終えた「読者」と考えるのがいちばん自然じゃないでしょうか。
歌集の最後にこの歌を読み終えた瞬間、『あかるい花束』が祝福をもって「大切なきみ」であるところの「読者」に手渡される。歌集全体を通しては、そういったイメージを喚起する歌だと思います。
ここで一度この歌を引きます。
ここまでの歌の傾向を素直に受け止めると、その傾向と、空っぽの花器が美しい、という態度にはちょっとしたギャップがあると思います。花があって、それもたくさんあって束になっているやつがよくて、それを大切な誰かに渡したり渡してもらったりすることを「祝福」とする人、がこの歌集タイトルから見る岡本真帆です。対して、この歌では花が無い花器を美しいと肯定している。この岡本真帆はなんなんだろう。
というところで、次に、岡本真帆が岡本真帆自身をどんなふうに考えているのか、の話になります。
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