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1983年と1991年の所ジョージ

1981年4月から1984年3月まで茨城県立太田第一高等学校の生徒だった。今はどうか知らないが、当時は県立高校の卒業式は3月1日と決まっていた。1月に共通一次試験があり、2月になると私立大学の入試が多くなる。1月末に「予餞会」と呼ばれる3年生を送る会があった。

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この写真は1983年1月31日撮影。体育館で歌う所ジョージ(当時28歳)である。私は2年生で写真部の理事長だった。予餞会ではタレントを呼ぶのが恒例となっていた。1年の予餞会は何故か写真がないので誰が来たのか分からない。3年の時は「SACHIKO」のばんばひろふみだった。この時は送られる側だったのでやはり撮影していない。私と写真部の同級生笠原が、笑顔で手拍子をしている写真が記憶にある。後輩の加藤が撮ってキャビネにプリントしてくれたのだろう。

のちに予餞会実行委員の同級生から聞いた話では、呼ぶタレントの候補を何名か選び、実行委員?で投票をして決めていたそうだ。開票の結果、1983年の第1位はお笑いトリオの「ヒップアップ」だった。しかしお笑いブームがまだ続いていた当時、3人のギャラはとても高くて予算オーバーだった。交渉したが下げてもらえず第2位の所ジョージを呼んだ、ということだった。今では考えられない。

結果としてこれは大正解。体育館は所ジョージの歌とMCで大いに盛り上がった。最初のトークで所さんは「いやぁ〜のどかでっすねえ〜。広々してて。外でお弁当を食べている女子生徒に挨拶されました」と言っていた。

おそらくカメラはペンタックスKM。レンズは当時持っていた望遠系が思い出せない。全部で9枚撮っているが、最初の方はマイクスタンドが邪魔だったり露出が飛んだりしている。少しずつ場所を変えて撮っていて、最後のこのコマだけがかろうじて合格点だ。

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そして次のコマがこれである。2年9組の教室。1983年2月初旬だろう。当時の茨城県の街にある県立高校は、一高は男子が多く、二高が女子高、もうひとつは共学、大きな街ならそれに工業高校と商業高校だった。昔の名残だろうと思うし現在は違うようだ。当時の太田一高の校則には、「男女が一緒に登下校してはならない」とあったのだ。

ひとつの学年に9クラスあり、詳細は忘れたが3クラスくらい?は男子クラスになる。この2年9組がそうだった。学年初日は出席番号順に左前から席に着く。普通は何度か席替えをするが、何とこのクラスは「女子がいないので席替えなど意味がない!」とクラスの野郎ども全員の意見が一致して、1年間そのままの席順だった。私は出席番号2番で相沢の後ろ。写真に写っている後ろ姿は、左から大貫・久保木・桜井だ。この景色を1年見続けたわけだ。

先生の名前は忘れたが、いつも寝ぐせだらけで眼鏡がずり落ちそうな先生だった。教科書を読みながら板書をするだけで、ほとんど生徒の顔など見ない。御前山村か美和村から軽トラックで通っていた。退屈極まりなく、ペンタックスKMとM28mm f/2.8で隠し撮りをしたのだろう。KMのシャッターはけっこう大きかったと思うが先生は気にもしなかった。いま見ると時代を感じる。エアコンなどはない。ストーブの煙突で黒板の一部が見えない。

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余談が長くなった。これは1991年11月頃の撮影。所ジョージ(当時36歳)。雑誌「広告批評」で新年用の公開イベントがあった。他のコマを見ると「ニホンジンはどこへ行くか」というタイトルで、どこかのステージ上に著名人5人が並んでいる。バックは唐草模様の富士山だ。このイベントに所ジョージが出演した。隣は山瀬まみちゃんか。ニコンF4SにAI80-200mm f/4Sだと思う。

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イベント終了後に楽屋へ挨拶に行くと、たまたま所ジョージと編集長の島森路子さんがいた。島森さんの希望で記念写真を撮った。高校の予餞会の話をすると、所さんは「あー。そういうことも・・・あったかもしんな〜い」と、あの口調で言って笑ったのだった。レンズを35-70mmかもう少しワイドに替えて、スピードライトSB-24を発光させている。このコマの次が最後のカットで所さんと、「広告批評」を発行するマドラ出版社主の天野祐吉さんが談笑している。

中央の女性は座談会のテーマが変わるタイミングで、ボクシングのラウンドガールのように、テーマが書かれたボードを持ってステージを横切っていた。編集部員だったようにも思うが分からない。

以前にもあちこちに書いたが、「広告批評」のマドラ出版は小さな会社だった。しかし我々外部スタッフの扱いが真摯で、著作権等に関する考え方がしっかりしていた。急ぎの時などプリントを自宅近くまで取りに来てくれた。雑誌が廃刊になってからも、別冊などの出版の際には再使用の連絡と規定のギャラの振込、そして手紙つきの掲載誌が送付されてきた。もちろんこれが本来なのであるが、それまで編集プロダクション経由で酷い扱いも受けて来た身としては驚いたのだった。アットホームな良い編集部だった。

こうしてネガを見て思うのは若い時の数年って凄いなということだ。1983年の高校2年生から1991年の仕事での撮影まで。17歳から26歳の8年10か月だ。その間に高校を卒業し大学で写真を学び、通信社での仕事を得つつアシスタントやアルバイトを経て、編集プロダクションなどでこき使われて、曲がりなりにも出版社から仕事を頂けるようになっている。私は現在57歳だが、8年前の49歳から何も変わっていない。変わっていないどころか、五十肩やらヘルニアやらで身体は衰える一方だ。まあそれは皆がそうなのだろうけど愕然とする。


電子書籍

「カメラと写真」

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