幸せとは善く生きること
教会報巻頭言として
「あなたがたは、主イエス・キリストを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。(中略)人間の言い伝えに過ぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、(後略)」コロサイ2:6-
わたしが哲学を学び始めたのは中学生の終わり頃でした。「自分はこれからどう生きるべきだろうか?」なんて、漠然と将来の進路を思い描いていたわたしに、担任であり英語の教師でもあった牧野先生の一言が大きな影響を与えたのです。
「お前は度胸があるから政治家にでもなれ。」
Mr.牧野(先生は生徒に自分をこう呼ばせていました)がこう言ったのは何もわたしが優れていたからではありません。みんなに怖い先生だと思われていたMr.牧野の授業中に堂々と寝ている人間がわたし以外にいなかったのでこういうことを(おそらく発破をかけるつもりで)口にしたのです。しかし、単純なわたしはその言葉を真に受けました。
「よし、将来は政治家になってこの国をよくしてやるぞ!」
そこで政治家になるにはどうしたらよいかを考えたのですが、よく分からなかったので取り敢えず英国の政治家が皆読むという「ニコマコス倫理学」を読むことにしました。しかし、さっぱり理解することができません。その時、「そういえば倫理の時間にアリストテレスの先生はプラトンって言ってたな」と思い出したのです。「アリストテレスが分からないなら一つ前に遡ってプラトンから読んでみたらわかるかな?」そう考えてプラトンの「ソクラテスの弁明」を読み始めたのが「哲学」にどっぷりハマるきっかけでした。
プラトンの著作は対話編として書かれており、一問一答のように短い質疑応答を連ねて書かれているのでわたしには非常に読みやすく感じました。例えばこんな調子です。
ソクラテス:じゃあ、次に移ろう。もし、善悪の基準を理解していない人の言葉に従って行動し、健康的なものによって良くなり、病的なものによって台無しになるものをすっかりダメにしてしまったら、僕たちはより良い人生を送ることができるだろうか。ところで、そのダメになったものというのは、やっぱり身体だろう、そうじゃないかね。
クリトン:そうだね。
ソクラテス:じゃあ、不摂生なことをして、すっかり身体がダメになったら、より良い人生を送ることができるだろうか。
クリトン:送れないだろうね。
ソクラテス:じゃあ、もしも、正しいことによって善くなり、正しくないことをすれば悪くなる、あの素晴らしいもの(つまり精神または霊、魂:筆者注)がダメになってしまっても尚、より良い人生を送れるだろうか。それとも僕たちは、正しいことやそうでないことに左右されるようなもの(同じく精神または霊、魂:筆者注)は、身体に比べれば大したものじゃないと言うのだろうか。
クリトン:決してそんなことはないよ。
ソクラテス:身体より大切なものなんだね。
クリトン:はるかに大切なものだよ。
ソクラテス:だったら君、多くの人たちが僕たちについて言うことなど、尊重してはいけないだろう。むしろ、善悪の基準についてよく知っている人たちがなんと言うか、それこそが真実だろう。だから、君の忠告は間違っているんだよ。正しいこととそうでないこと、善いことと悪いこと、立派なこととそうでないことについて、大衆の言うことを考慮すべきじゃないんだ。だけど、そういったところで、「しかし、その大衆は僕たちを殺すんだよ。」と言う人もいるだろうね。
クリトン:そうだよ、ソクラテス。そういう人もいるに違いないよ。
ソクラテス:それはそうだ。だけど、前の議論は驚くことに何の変わりもないんだよ。ところでもうひとつ、別の意見についても同じことが言えるんじゃないだろうか。ただ生きてる人生よりも、善く生きている人生、そういう人生の方を重んじるべきなんだ、という意見についてはどう思うかね。
クリトン:そうだね、それも動かないね。
ソクラテス:じゃあ、善く生きている人生とは、正しく、立派に生きる人生だというのはどうだろう。
クリトン:それも動かないね。
(青空文庫『クリトン』より、一部改変)
わたしはプラトンの著作群を片っ端から読み進めていきました。そして「幸福とはよく生きることであり、人は善く生きるべきなのだ」というソクラテスの教えに傾倒していきました。しかしどのように生きるべきかを知ることができたとしても、それを実行に移すことはそれほど簡単ではありませんでした。善いことをしたつもりが悪い結果を生んでしまったり、自分の弱さや欲望に負けて善を貫けなかったり、特定の状況で何を行うことが善であるのかがわからないといった場面が何度も現われたからです。そして、わたしは全く幸せではありませんでした。
その後若さゆえの過ちを犯し自責の念に駆られて苦しんだわたしは、遂に精神を病む結果に陥りましたが、それは今思うと、わたしの青春の終わりを意味していたのです。
哲学を学び、善とは何かを追求したわたしが、善をなすことができない己の無力さに打ちひしがれ、教会の門を叩いたことを思えば、パウロが述べるように確かに哲学は空しいと言えるでしょう。しかし、人間の知性の働きすべてを、およそすべての「学問」をも哲学に含めるならば、神学もまた空しいのだというのがこの聖句の意味であると、わたしは考えます。たとえ教義を学び、神とは何者であるかを学んだとしても、キリストに従って生きることが叶わないのだとしたらそれはむなしいだましごとの虜になっているのと同じだからです。
神の義と神の国を求め続け、自分を空しゅうして神に従い、敵をも愛しながら小さくされた者たちと酒を酌み交わし、枕する所もない旅を続ける、そんな生活を実践できていないのならば、三位一体の奥義を知ろうが聖書を何遍通読しようが世を支配する霊の束縛から脱け出せてはいないのです。
中華料理修業時代にコックのチーフがわたしにくれたラジニーシの『禅の十牛図を語る』には、こんな言葉があります。
複雑な理論や思想体系を人は学びたがる。それなら申し分のない体験になる。それはエゴを強化してくれる。それはエゴを養ってくれる。だれもが知識を増やしたがっている。それは微妙にエゴを肥やす。人々は教師の話に耳を傾ける。多くの人が長い間彼の言葉に耳を傾けていたが、彼らの意識にはなんの変化も起きていない。
聖書を読み礼拝に出ても、わたしたちの意識に何の変化も起こらないのであればそれは無意味です。わたしたちが主日に神を礼拝し、聖書の御言葉を分かち合うのは、キリストに倣い、キリストを上に着て、神の義に従うことができるようになるためであると、わたしは信じているのです。そして神の国とは、神の全き支配の内に生きる小さなキリストとなった一人一人が集まるところに初めて生まれるのだと信じているのです。
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