読書感想文 『錦繍』
前略
お久しぶりです。お元気ですか。
東京は相変わらず、否、年々暑さが増して行くように感じますが、それは単に僕が年をとっただけなのかもしれません。
僕は32になりました。あなたは僕よりちょうど10上ですから、42歳になっているはずですね。
しかしこの灼熱の太陽もかつてあなたとの恋で味わったあの地獄の業火の如き熱量には、到底敵いません。
こうしてあなたに御手紙をしたためているのは、なにもあなたとまたよりを戻したいとか、そういうお話ではないのです。だからあまり警戒しないでくださいね。あなたは図体ばかり大きくて、気が小さい人ですから。
先日、宮本輝さんの『錦繍』という美しい小説を、久しぶりに読む機会がありました。
そうです、あの『錦繍』です。あなたも覚えていることと思います。
かつて夫婦だった2人の男女が、10年ぶりに偶然、紅葉の山形・蔵王のゴンドラで再会し、その後手紙でのやり取りで再び交流を取り戻していく…そんな2人の手紙のやり取りだけで続いていくこの小説を、当時あなたも僕もいたく気に入っていて、実際に山形の蔵王温泉まで、あなたの車で旅行に行きましたね。
僕もあなたも小説の中の彼らと同じく、今より10歳若かった。
「いいところだけど、小説ほど綺麗じゃなかったね」
「だから宮本輝は天才なんだ」
知った風な顔で、そんな生意気なことを言いながら、温泉に入ったり、酔い潰れるまでお酒を飲んだのは、良い思い出です。
『錦繍』とは美しい織物、美しい紅葉や花、美辞麗句を散らした文章、などという意味があるそうです。
実際に小説の中の2人の物語は、2人以外の魅力的な人物…例えば女性の父親や今の旦那さんとの間に生まれた息子さん、男性が今同棲している相手の女性、など…様々な人間味あふれるたくさんの人々によって美しく、一枚の錦の模様のように、織り成されています。
それに比べて、僕達の織り成した物語はどうだったでしょうか。
僕達は常に僕達2人のことしか考えていなかった。
僕達2人が関係を続けることを、周囲の人々みんなが反対していたことを(その理由を今更ここには書きますまい)知りながら関係を止めようともしなかった。
警察沙汰を起こしたこともありましたね。
互いがいればそれでいい、周囲をどれほど傷つけても、迷惑をかけても構わないという、子供っぽい情熱だけで僕達は繋がっていました。
そんな2人の織りなす恋物語は無様で、不恰好で、お粗末であったと言わざるを得ません。
事実たくさんの人々が僕達の子供っぽい関係の迷惑を被り、後始末までする羽目になりましたね。
当事者2人だけで作り上げる恋愛など、しょせんは物語の中だけ。絵空事であり、茶番なのです。
織り目を間違えた錦なのです。
今の僕にはそれがわかる。
今僕がお付き合いしている方は僕より7つも年下ですが、とても良くできた男性です。
複雑な家庭の事情で苦労して育ったせいか、大人びていて、僕たちとは違い、他者を思いやることのできる人です。少し退屈なところもありますが、優しい人です。
あなたがかつて「あいつら嫌い」と言っていた(彼らもあなたをそう言っていましたが…)僕の親友たちからも可愛がられていて、僕は近々彼のご家族に会う予定です。
互いにとって大切な人々という糸が時に織り混ざることで、錦は美しく、丈夫に織り上がるのではないでしょうか。
だから、あなたにも今、そういう風に思える人々がいればいいと、これは皮肉や嫌味でもなく、そう思っています。
愛だけでは、恋だけでは、だめなのです。
僕が手に入れたこの穏やかな生活は、あなたとの血なまぐさい狂宴ともいえる、あの長い日々を経て、その時流れたたくさんの血の上に成り立っています。
だけど、時々不安になるのです。
愛憎といったものとは無縁の、今の彼との静かな時間の中で、ふと「これは本当の自分なのだろうか」と。
あなたと2人で、何もかもをなぎ倒しながら、たくさんの人々を傷つけながら、己の欲望にのみ忠実だったあの餓鬼の如き醜い姿こそ、本当の自分だったのではないかと思うと、恐ろしくなるのです。
あなたには、そんな風に僕を、僕たちの関係を、思い出すことはあるのでしょうか。
すみません。こんなことを書くつもりはなかったのですが、さっきからロックで飲み始めたウイスキーのせいで、少し感傷的になっているようです(よく2人で昼間から安物のトリスを飲みましたね)どうか忘れてください。
「今」のあなたの生き方が、未来のあなたを再び大きく変えることになるに違いありません。過去なんて、もうどうしようもない、過ぎ去った事柄にしか過ぎません。でも厳然と過去は生きていて、今日の自分を作っている。けれども、過去と未来の間に「今」というものが介在していることを、私もあなたも、すっかり気がつかずにいたような気がしてなりません。(本文より)
今の僕がこの小説の中で、1番好きな一文です。
「過去」はしょせん「過去」…しかしそれでいながら「今」と「未来」を作り上げるのもまたその「過去」なのです。
再会後、手紙のやり取りを長く交わしていながら結局最後まで、再び合見えることのなかった2人のように、僕達もまた、もう2度と会わないほうがいいのでしょう。
しかしどれほど恥じるべき過去であっても、血なまぐさい記憶であっても、「今」そして「未来」を生きることを望む以上、僕はあなたとの日々を決して忘れることはない…どうしてもそれを伝えたくてこの手紙を書きました。
僕達の織り成した無様な「錦繍」は、いつまでも捨てることなく、ひっそりと僕の宝として残っていくことでしょう。
どうかあなたにとっての僕という男もまた、そういう存在であることを信じて、筆を置きます。
まだまだ暑い日々が続きますが、どうぞお元気で。
かしこ
2021年8月6日 りょう
追伸
すっかり失念していました。最後に…もう一言だけ書かせてください。この小説を読んで、あなたとの過去を回顧し、ひとつ思い出したことがあり、 どうしてもそれを伝えたくて、そもそもこの手紙を書き始めたのでした。
いつぞや俺がパチンコ屋で貸した3万返せこの腐れ外道がっ!
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