
全ての行動は、自らの決断に起因している。
しがない備忘録である。小難しいタイトルだが、至極当たり前の内容である。
行けない≠行かない
先週の日曜日、鎌倉インターナショナルFC(社会人サッカーチーム)での全体写真撮影の時のこと。前週の試合で負った肉離れを理由に、夜の練習試合には帯同せず、撮影が終わり次第帰宅するつもりでいた。
「亮平、今夜来るん?」
「いや、怪我もあるんで行けないっす」
「怪我が理由で『行かないと決めた』のは自分やろ?だから『行けない』んじゃなくて『行かない』が正しいんやで。」
衝撃的だった。
怪我をおして行かなかったことを後悔しているのではない。むしろ、長距離移動を回避した自分の判断は賢明だったと思っている。
自分の判断に基づく行動を、知らず知らずのうちに外的要因のせいにしていた事実が衝撃的だった。
ベクトル
よく、「自分にベクトルを向けろ」なんて言われる。どういうことか。
ベクトルを他者から自分に向けると、言葉が変わる。
例えば、「(予定があって)行けない」と「(AとBの2つの予定を天秤にかけた上で、Aに行く方が自分にとってためになるからBに)行かない」を比較する。
前者は、主語の「自分」が隠れている。文法的には「私は、予定があって行けない。」だが、その発言の中に「自分」という概念は存在しない。完全に「予定」にのみフォーカスが当てられている。
後者は、明確に「自分」という主語が存在する。間違いなくこの発言における意思決定者は「自分」である。「予定」はあくまで、意思決定プロセスにおける要素のひとつに過ぎない。
この場合、「予定」という他者に向いていたベクトルが、「自分」という主語に向くことで、ベクトルの向きが変わる。そして、言葉が変わる。
言葉が変わる
かくいう自分は、ベクトルが自分に向いておらず、主語の「自分」が抜け落ちていたことに気付かされた。これまでリーダーとして心掛け、そう伝えてきた立場だったのにも関わらず。
繰り返しになるが、主語の「自分」が顕在化すると、言葉が変わる。
・「ごめん、飲み会があって行けないわー」ではなく、自分が「飲み会に行く」ことを選択した。
・「忙しくて勉強が出来ていないんだよね…」ではなく、自分が「勉強ではなく仕事をする」ことを選択した。
・「暇だな〜」ではなく、自分が「何もしない」ことを選択した。
何も、常にスイッチがONであることを推奨しているのではない。
主語が「自分」ならば、
「(リフレッシュのために)飲み会にいく」
「(ギア上げてタスクに取り掛かりたいから)勉強ではなく仕事をする」
「(余白の時間を設けてクリエイティビティをあげたいから)何もしない」
全ての行動に意図が生まれ、主体性が生まれ、意味が生まれる。
だからこそ、改めてここに記す。
全ての行動は、自らの決断に起因している。
自戒を込めて。