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「和賀英良」獄中からの手紙(21)  飛ばないクマゼミ

―池上本門寺、お会式の夜―

和賀と田所佐知子は丸山教授の退官パーティーで出会ってから急速に親しくなった。そのあとすぐに大浦食堂で偶然に出会ったこともあり、佐知子が積極的に電話をかけてくるようになった。

電話番号を誰から聞いたのか尋ねると「それは秘密なのよ」といって明るく笑っていたが、烏丸教授から聞き出したのは間違いないだろう。

近頃は和賀が参加している作曲家グループや映画監督の勅使河原隆弘氏によって設立された「草月アートセンター」での活動に佐知子も同行している。

彼女は屈託のない明るさや、その持って生まれた華やかさで、現代音楽グループやモダンジャズマンたちのマドンナとなっていた。

ある十月の秋の夜、東急池上線の洗足池ちかくで映像プロデューサーの牧野瑛士と和賀英良は、来月に予定されている「草月フィルムフェスティバル」の打ち合わせをしていた。実験的な映像フィルムと現代音楽を組み合わせた挑戦的な企画であった。

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「和賀さん、打ち合わせはこれくらいにして、ちょっと池上駅まで行きませんか、おもしろいイベントをやっているんですよ。よかったら佐知子さんも一緒に行きませんか?」

両手を高く上げ背伸びをしながら、牧野は和賀と佐知子に声を掛けた。

佐知子は先ほどまでの打ち合わせでは気後れして退屈していた。

「いきますわ!どんなイベントですの?」

牧野は説明した。

「池上本門寺ってご存じですか?この洗足池から電車で蒲田方面に行ったところにある日蓮宗のお寺なんですよ。日蓮聖人は長年住み慣れた身延山から、病気療養のため常陸の国(現在の茨城県)に湯治に向かう途中、この池上の土地で亡くなられたんです」

和賀は日蓮宗といえば「南無妙法蓮華経」だな、とすぐに放浪の時を思いだした。

「そのため池上に『日蓮聖人ご入滅の霊場』としてお寺が建てられ、それから七百年くらい経ちますが、そこは日蓮宗布教の殿堂なんです」

佐知子は目を輝かせて質問した。

「牧野さんは、日蓮宗ですの?」

あまりにストレートな質問に少したじろぎながら牧野は言った。

「あ、うちの家系は昔から日蓮宗なので、これから行く『お会式=おえしき』にも毎年家族で行って楽しんでますね、けっこうこの業界では日蓮宗の関係の方も多いですよ」

おえしき?……初めて聞いたわ。なんだかおもしろそう!」

「お会式というのは、日蓮聖人がお亡くなりになった10月13日を中心にした、ようするに大法要で、とくにこの池上本門寺で行われるお会式は盛大なんですよ」

和賀はその時は「盆踊り」のようなものを想像していたが、現場に行った時にそのイメージは打ち砕かれることになる。

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池上駅を降りるとあたりは驚くべき人の波でまっすぐに歩けないほどであった。三人は本門寺を目指して進んだが、これではいつ到着するかわからない。その人込みの中から「ドンツク、ドンドンツクツク」という太鼓の音が鳴り響いていた。

それは信者数十人が叩いている団扇太鼓のアンサンブルで、白装束に背中は「南無妙法蓮華経」の日蓮直筆の文字プリント、左手には団扇太鼓、右手に太鼓ばち。といういで立ちで「ナムミョウホウレンゲーキョー」と唱和しながらゆっくりと進んでいく。

こういった集団があちらこちらに出現し、町はまるでブラジルのリオのカーニバルのような喧噪であった。

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「英良さん、すごいすごい!こんなの知らなかったわ!」

佐知子は大はしゃぎで和賀の手を握りしめた。

和賀はそのビートを感じながら、幼い時に父と歩いた時にそうしたように、「なむみょうほうれんげいきょう」と口ずさみながら自然に歩調を合わせて進んでいった。

 本堂にたどり着くと、そこには身延山大学久遠寺で修行中の若い僧たちが集合し読経の開始を待っていた。

「和賀さん、これから始まるお経は「自我偈(じがげ)」っていうやつなんですが、5拍子の高速読経で。ロックミュージックも真っ青なビート感ですよ、特に身延山から来た学生がやるやつは最強なんで、僕は毎年これを聴きにきてるんです」

 牧野が興奮気味に説明したその刹那、いきなりドオーンと太鼓の音が鳴り響き、すさまじい音量の大太鼓や銅鑼の打楽器合奏に乗った数十人による高速の読経が始まった。

自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇
常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫
為衆生度故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
・・・・・・

私が仏になって過ぎさった期間は、
計り知れない百千万億という長い時間である。
常に教えを説いて、数限りない人々を教化し、
仏道に導き、長い時間が経過した。
人々を救うために、身体の消滅という手段をとったが、
実際に消滅したのではなく、常にこの世にいて法を説いている
・・・・・・

◎如来寿量品第十六の偈文(詩句)より抜粋

和賀と佐知子はそのハイスピードで唱和される読経と音圧に圧倒されて、身じろぎもせずに立っていた。

それはドラマーが高速でビートを叩き出しているロックンロールのような圧倒的な躍動感であった。機関砲のように繰り出される五音の詩句が二+三のサイクルとして塊となって人々をトランスに導いていく。

それはまさに地を這うリズムとビートの衝突であった。

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5拍子ってどうなのか?
音楽家の間では「変拍子」となっているが、和賀は特に違和感を持っていなかった。「変拍子」などと言うから「変な拍子」に間違えられるのだ。

以前に作曲家や学者連中が集まった酒席にその話が出た。宗教音楽の専門家が、けっこうアフリカにはよくあると言った。同じ質問をそこにいた「音楽が専門ではない」宗教学者に聞いたところ、笑いながらこう説明した。

5って数字はあたりまえに自然ですね……4のほうが理論的である意味で作為的ですね。だって人間の手をよく見てください」

そして手のひらを相手に見せながら言った。

「指って五本ですよ」


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その夜、自宅に戻った和賀と佐知子はベッドの中で話をした。

「ねえ英良さん、今日のあの身延山大学の自我偈(じがげ)っていうお経、あれを聞いちゃうとなんか普通に聴いている音楽が消し飛んじゃう感じじゃないかしら、気軽にやっている音楽って魂がないっていうか、音遊びになっちゃってるんじゃない?」

和賀は同じことを考えていたのでびっくりしたが、それに共感した返事はしなかった。

「いや、それは違う。あれはある意味の目的音楽というか……芸術音楽じゃないんだよ。本当の音楽って目的があっちゃダメなのさ。たとえばラジオ体操はいくら頑張って演奏しても体操のための音楽であって芸術じゃない。音楽の芸術性ってそれ自体に意味がないから芸術になるんだよ」

佐知子は自分のやっている彫刻のことを考えていた。

和賀は急に振り向いて、子供のような笑顔で佐知子に話しかけた。

「だから、きみの彫っているクマゼミの彫刻は ……

『飛ばない』でしょう」


佐知子は納得したように微笑みながら、和賀の腕の中に抱かれていった。

         ◇       ◇      ◇

田所佐知子 © 1974 松竹株式会社/橋本プロダクション

第22話:https://note.com/ryohei_imanishi/n/n0dd44ac73998

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