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内田樹 著 『レヴィナスの時間論』を読む Ⅱ
レヴィナスによれば、未来は未知であり、いかなる予測も投企も飛躍も受け付けない、とされる(本書256頁)。うむ、そうかと思うけれども、レヴィナスにとり未来は、人間の理性や経験に基づく予測や計画を超えた、開かれた可能性として捉えられるようだ。
この未来とは、他者との顔と顔との対面そのものであり、そこでは慈愛と正義が時間のうちに生起すると説く。
とはいうものの、人は未来を予測したり、徴候を読み取ろうとする。レヴィナスも、こうした人間の営みを否定するわけではない。ただ、彼が言う「未来」は、予測や徴候によって把握できるような、時間的に連続した未来とは異なる。レヴィナスの未来は、他者との出会いがもたらす、現実に開かれた、無限の可能性そのものである。
予測や徴候は、いまだ現れていない他者の存在を意識させる。それは、レヴィナスが言う「未来」を予見するものではなく、むしろ、現在の感覚の中に現れる、他者との関係性の断片(関係性の萌芽か)である。
未来予測は確率、計量化でしめされることがある。詩人マラルメが骰子の投擲を例にしたように、未来においてはたえず偶然性がある。
レヴィナスは計量化を慎重に避ける。人間関係や倫理といった、数値化できない人間の深層を、計量化によって単純化してしまう危険性があるとみてよい。
とはいえ、予測も徴候もはぎとった未来というか未来に現れる他者って、通常の感覚ではとらえられない他者性でありそうだ。
レヴィナスが描く、未来における他者との出会いは、確かに私たちの通常の感覚では捉えにくい、ある種の「超越性」や「異質性」を含んでいると言える。
時間感覚は、歴史的に見て未熟から成熟に向かう。古代中世の人々のなかには、現在を中心とした時間観を持ち、過去や未来に対する意識が薄い人もいた。しかし、歴史の変遷とともに、人々は時間に対する理解を深め、過去、現在、未来という時間軸を意識し、歴史的な出来事と個人的な経験を結びつけ、他者との関係性を深く理解する能力を獲得していった。この能力を「時間感覚の成熟」と呼ぶことができる。
内田樹は、レヴィナスのこの時間論が、ホロコーストに対する深い考察から生まれたものであると指摘する。
確かに、レヴィナスはヒトラーの『我が闘争』を読んで『ヒトラー主義哲学に関する若干の考察』という論文もあることから、哲学者のなかでもとくにナチズム(レヴィナスのいうヒトラー主義)への抵抗が根本にあると考えられる。
ホロコーストにおいて、加害者たちは、自分たちの行為の長期的な影響を考えずに、他者を単なる手段として扱った可能性がある。一方、生存者たちは、過去の悲劇を乗り越え、未来に向かって生きるために、時間感覚を再構築する必要があった。プリモ・レヴィ、ジャン・アメリといった作家は、ホロコースト体験を生き抜き、その経験を文学作品として発表することで、時間感覚の再構築を試みた。彼らの作品は、ホロコースト体験が個人の時間感覚に与えた影響を深く掘り下げており、レヴィナスの時間論との関連性が高い。特に、彼らの作品に見られる時間感覚の歪みと再構築のプロセスは、レヴィナスの「未来」概念や「他者」概念との深い関わりを示唆している。
レヴィナスはホロコーストを直接経験した生存者ではなく、彼の哲学は、ホロコーストという歴史的出来事に対して関心を抱き、その経験から生まれている。
レヴィナスの時間論は、線形的・連続的な時間観ではなく、他者との対面が生み出す出来事としての時間を重視している点で独特である。
時間論については、ギリシャの昔から、マクダカートまで読みかじりで、読むには読んでみたが、レヴィナスの時間論は際立って面白いなぁ、と思う。