アポトーシス〜死の社会的意義〜
慶應義塾体育会ソフトテニス部の部員日記をご覧いただき、ありがとうございます。
今回の部員日記は、商学部1年岡田諒悟が担当させていただきます。
先日、今年度の関東学連主催の大会中止が決定し、実感の湧かぬまま4年生の先輩方の引退が決まってしまいました。先輩方の顔に窺えた涙も笑顔も、私にはまだそこに隠された心情は到底想像できませんが、結果で示し続けた先輩方の背中を、少しずつでも、同期やこれから入ってくる後輩たちに、自分の背中で同じように示せるように、日々研鑽を積みたいと思うばかりです。
さて、そんな引退シーズンとなってしまった夏休み明けですが、この日記では、私が最近衝撃を受けた、Official髭男dism「アポトーシス」という曲について、私なりの解釈とそこに見えた世界観、そしてそれに対する想像や思い、考えを、自由気ままに書いていきたいと思います。
以下、Official髭男dism『アポトーシス』MV(YouTube)です。
https://youtu.be/PZX2npwj6jY
はじめに
私は、あまり音楽を日常的に聴くという習慣がありません。というのも、昨年の5月に携帯の端末を機種変更して以来、契約プランを変更して、50GBかつYouTube・SNS見放題のプランにして以来、移動中にすることが「音楽を聴く」から「YouTubeを見る」に変化したからです。
そんな私が、YouTubeで、サムネイルとタイトルに惹かれてついついMVを開き、心を奪われた曲がこの『アポトーシス』という曲です。
つまり、特段の「ヒゲダン」のファンであるわけでもないですし、音楽に詳しかったり楽曲の考察に手慣れているわけではありません。間違っていたり、情報不足だったりすることはあると思いますが、それでもこの曲に心打たれ、この感動・感情を共有したい、というモチベーションが上回り、この記事を書くこととなりました。何卒、暖かい目でご覧いただけるとありがたいです。
「アポトーシス」とは何か
それでは、タイトルにある「アポトーシス」という語について調べていきたいと思います。
wikipediaでは、以下のように説明されています。
この曲は、死期を悟った女性が愛する人に贈る、「訪れるべき」自分の死に対するメッセージと受け取れます。
この女性は、「社会」という多くの人間が集合し、構成している集団を「多細胞生物」と喩えて、自身の死を「社会」が存続していくために必要な「個体の死」であり、「落ち葉も空と向き合う蝉も」「校舎も駅も」全て社会が存続していく上で、いつかは老いていって、いつかはこの世から去ることが必要で、だから、半ば運命的にいつか死ぬことが定められている、という世界観を持っています。
私がこの曲で最も共感した部分はこの世界観です。
人間、誰しも避けられない「死」があります。それは、人間にとって得体の知れぬ「恐怖」であり、こうした「恐怖」が、死後の世界を美しく伝え、死を従容として受けいれる宗教の発展の根源となってきました。
では、なぜ死を受けいれる必要があるのか。それは、「死」が後世のために必要だからです。
簡単にいえば、人間が無限に生存したとすれば、どんどん地球は人間に埋め尽くされていき、いつか暮らせなくなってしまうわけです。残念なことに、そう考えると、命に終わりがなければ、人類は成り立たなくなってしまいます。
そういった意味で、この歌の主人公は死が必要であることと、死があることによる生命の儚さを的確に表しています。
歌詞解釈(1番)
冒頭でも述べたとおり、この曲では死を「訪れるべき時」として表現しています。
死を前に語らなければならないほどの長い期間を共にした伴侶に、一緒にいればいるほど魅力的に思わされる、という、いわば最高の相手であることを感じさせられる表現です。
この先の自らの死を悟った主人公は、死に面した伴侶を思いやる言葉をかけます。普通の人間であれば(少なくとも今の僕であれば)、自分の死を前にすればその恐怖に支配され、他の人のことを思う余裕などないはずです。つまりこの主人公は、このような余裕のない状況ですらその人のことがすぐに出てくるほど、その人を想っているということが伝わってきます。
「死は誰にでも訪れ、何人も死から逃れることはできない」という事実を、私たちは誰もが頭では認識しています。歳を重ねれば重ねるほど死が近づくことは、もはやこの世の公理的な事実として知られています。その幅広さを「落ち葉」や「空と向き合う蝉」という表現で、今や屍となったものも例外なく、私たちと同じようにこの世に生を与えられていたものである、と的確に表しています。
ここで言う「鐘」は、「弔鐘」のことであると考えられます。
(弔鐘:死者を悼み、冥福を祈って鳴らす鐘のこと-デジタル大辞泉)
「お祭り」という表現を、命ある時点での人間の活動と重ね、その「祭り」、つまり命の終わりが、周囲の人間やその人にとって重苦しく、世界を閉ざすような暗さがあることを、「鎮まり返る」と表現しています。
私たち人間が、この言葉には表しきれないような負のイメージから、どうにかして離れようと、少しでも長く生きて、愛する人と共に時を共にしようと焦る様子が表現されています。
ここでいう「似た者」とは、そうして死を忌避し脅威として捉え、どうにか逃れようとする人々のことだと考えました。
ただ、どれだけ逃れようとしても、人間(生物)は死を前に無力です。そうした無力感を「空っぽ」と表現したように感じます。
無力さを感じながら、目の前の与えられた一瞬を全力で、「死」など意識できないように、次の一瞬をどうにかしてよくしようと、生きようと、必死に生き進むことを表現しています。
歌詞解釈(2番)
弱冠19歳の私にはまだまだわかりかねる感覚ですが、おそらくある程度の年齢を重ねていると考えられる主人公は、身体が日に日に衰えていくのを痛感していると考えられます。
さらに、衰えと共に食べられる量が減っていく様子が、「歳と共に増えるロウソク」と対比的に用いて、印象的に表現されています。
(以下、僕の勝手な想像ですが、主人公はガンなどの死の病を抱えていた可能性を感じました。その理由として、体の痛みが止まらなくなっていること、食事量が減っていること、そして本人が死を意識していることが挙げられます。ガンという病が、アポトーシスの不正化によって起きることからも、それを想起させられます。)
生に終わりがあること、その儚さを、誕生日ケーキにさされたろうそくを吹き消した後に広がる幸せがいつか終わりを迎える、と表現しています。この歌では、生きることの幸せさを他人との関係性によって説明する傾向があります。
1番の同じ部分「落ち葉も空と向き合う蝉も」と重ねて、「校舎も駅も」と表現されています。
「分かっちゃいるよ」という表現から、主人公が頭では誰にでも死が訪れるということは頭では分かっているけれど、それを実感しているか、受け入れられているか、といえばそうではないことを感じさせられます。
「リビングの明かり」とは、一般的に生活の明かりで、誰かとの生活の中での光を指すと考えられます。すなわち、明かりのないリビングとは、今まで当たり前にあった、共に過ごす人の存在がなく、生活に光のない様子を示していると考えられます。
そんなリビングには、もちろんこれまでの生活の思い出がたくさん詰まっていて、どうしたってその思い出を思い返してしまいます。思い返したあとで、今はもうその光や思い出がないことに気づかされ、やるせなさを感じさせられています。
1つ前の部分「水を飲み干しグラスが横たわる」と、「水滴の付いた命」が対応している、と考えられます。生命活動に水は欠かせないものであり、生きていく上で外部から取り入れた必要不可欠なものです。「水滴の付いた命」とは、様々な外部(≒他者)との関わりを持つ唯一無二の命が刻々と時を重ね、終わりに近づいていく様子を表しています。
私たちにとって、1秒1秒は人によって様々です。寝ている時間もあればゲームをしている時間もあり、大切な人と共にする時間も、スポーツをする時間もあります。そんな人によって違う時間も、客観的に見れば全く同じ1秒として、平等に流れます。そうして、地球は同じ時間を同じスピードで回り、止めどなく流れていくことに、私たちは置いていかれそうになります。そうして戸惑う様子を、「解説もないまま次のページをめくる世界に戸惑いながら」と表現していると考えられます。
1番にもあった、死の恐怖に焦る気持ちを忘れようと、安らげようとするかのように、少しでも生きながらえるように、何かに縋るような思いで祈っている様子が伝わってきます。
この曲の世界観「死は誰にでも訪れ、命が与えられている時間は定められていて、愛する人と共にできる時間は限られている」を最も強く表現している箇所だと感じます。
死の恐怖に怯え、焦りを感じ、不安に眠りを妨げられていた主人公が、その気持ちを打ち明け、少し落ち着きを取り戻した様子が感じ取れます。
考察・感想(総合)
以上が歌詞全文の内容の僕なりの解釈です。
主人公の、近づく自身の死に対して、受け入れて穏やかでいる様子が伝わってくる内容に感じられました。
さて、ここで少し、私自身の死に対する考えの遍歴(?)を表明したいと思います。
私が初めて死について考えたのは5歳のときでした。母の見ていた、『ER緊急救命室』というドラマがきっかけでした。かなりリアルに生死の狭間を彷徨う患者を演出し、時には人が亡くなります(時には、と書きましたが日本の医療ドラマと比べればかなりの人が亡くなります) その時に、「死に対する漠然とした恐怖」を明確に意識したのを覚えています。夜になればその恐怖に怯え、毎晩涙した1週間も、14年前のことの割には記憶に新しく感じます。
時は経ち、もうまもなく私は20歳にもなろうとしていますが、それでもなお、自分の死に対する恐怖にある程度怯えています。ヒカキン・セイキンの『今』という歌や、スティーブ・ジョブズ氏のスタンフォード大学でのスピーチの中で登場する、「明日死ぬとしても満足できるか」という価値観に対し、1度として「今日死んでもいいや」という答えを出せたことがありません。いくら口では厭世観を吐き捨てていたって、実際にはこれからの未来に多かれ少なかれ期待を抱いています。
このように、私はおそらく死に対して強めの恐怖感を抱いています。そういった死の恐怖に対し、私はいつも何か逃れられる生き方を模索してきました。
この曲は、そんな私にとって、「いつか歳を取れば死を受け入れられる日が来るのかもしれない。それまで死を気にせず、前向きに直向きにやりたいことをやろう。」と思わせてくれる曲でした。
おわりに
長くなりましたが、この辺で今回の私の部員日記を終わりとさせていただきます。最後までご覧いただき、ありがとうございました。次回の慶應義塾体育会ソフトテニス部の部員日記もよろしくお願いいたします。