90秒で学ぶ!逆説の日本史2⃣古代怨霊編(第四章)
今回は井沢元彦「逆説の日本史2⃣古代怨霊編」(小学館文庫)
の第四章を90秒で紹介します。
第四章 平城京と奈良の大仏編
聖武天皇、光明皇后が奈良に大仏を建立した理由
聖武天皇と光明皇后は奈良に世界最大級の大仏を建てました。
その理由について、『続日本紀』には仏教の力で天下を安泰にし、国民を幸福にするためであると書かれています。
しかし、史料に書かれていることだけを鵜呑みにするのは、
史料至上主義そして歴史の呪術的側面の無視であり、実態は異なると井沢氏は指摘します。
では、聖武天皇、光明皇后が奈良に大仏を建立した理由は何でしょうか?
それは、長屋王を筆頭に持統・藤原王朝によって殺された皇子たちの怨霊封じのためです。
その根拠として二つの事象に分けて説明します。
第一に、聖武天皇の後継者問題。
第二に、持統王朝の嗣子たちの若死について聖武天皇はどう捉えたかです。
まず第一に、聖武天皇の後継者問題です。
聖武天皇と光明皇后に間には、基王という男のことが生まれました。産まれた直後に基王は皇太子に指名されますが、1歳の時に死亡しています。
その後、基王の姉である阿部内親王(のちの称徳女帝)が皇太子に指名されます。
しかしながら、この皇位継承の仕方は前代未聞の珍事です。
というのも、聖武天皇には実は、光明皇后との間に生まれた基王とは別に、県犬養広刀自との間に生まれた安積親王という男の子がいたのです。
つまり、他に聖武の血を引く安積親王(男子)がいたにも関わらず、わざわざ阿部内親王(のちの称徳女帝)が皇太子に指名されたのです。
なぜこのような皇位継承が行われたのか。
それは持統女帝と藤原不比等により決められた皇位継承の原則として、
持統系の男子と藤原系の女子との間に生まれた子供のみに皇位を継がせるということがあったからです。
要するに、安積親王は藤原家の血を引いていなかったので、皇太子になれなかったのです。
では、安積親王はどうなったのか。
藤原系以外の天皇を排除する目的で暗殺されました。
また、安積親王に次ぐ非藤原系の有力な皇位継承候補者であった長屋王も、当時政権を牛耳っていた藤原四兄弟に殺されます。
このように、皇位継承問題で、持統系と藤原系がそれ以外の系統である皇子を数々暗殺していきました。
しかし、その後藤原四兄弟は天然痘で急死します。
これを聖武天皇は、藤原四兄弟に殺された長屋王の祟りだと考えました。
第二に、聖武天皇は、持統王朝が嗣子に恵まれない事を祟りの仕業だと考えたことです。
持統王朝は代々皇位を継ぐべき男の子が一人しかいませんでした。そしてその嗣子である草壁皇子、文武天皇、基王も若死にしています。
それはなぜか。
過去に持統系と藤原系の系統を守るために無差別に大津皇子、安積親王、高市皇子を殺したこと。
それにより彼らの祟りが起こったからだと聖武天皇は考えました。
つまり、彼らの怨霊によって皇位継承者は若死にし、藤原四兄弟も急死したと考えました。
だからこそ、彼らの祟りを鎮魂するために奈良に巨大な大仏を建てたのです。
まとめると、
当時相次いだ天災、社会の内乱、藤原四兄弟の疫病による死、嗣子が恵まれないことに対して、
聖武天皇・光明皇后は、長屋王を筆頭に持統・藤原王朝によって罪なくして殺害された皇子(大津皇子、安積親王、高市皇子)の祟りであると認識していました。
そのため、国家鎮護として奈良に大仏を建てたということです。
まとめ
今回は井沢元彦「逆説の日本史2⃣古代怨霊編」(小学館文庫)
の第四章を90秒で紹介しました。
この章では、奈良の大仏は、過去に無罪の罪で殺された皇子の怨霊封じのために建立されたと結論付けました。
つまり、大仏建立により世の中が良くなると(怨霊封じに成功できる)期待していたということです。
これは逆に言えば、世の中が良くならなかったら大仏は不要であるということです。
そう考えると、桓武天皇が奈良の大仏をあっさり捨て、遷都した理由についても説明することができます。
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