【記事要約】佐久間徹(1998)「子どもを考えるための一つの発想」, 芦屋市立打出教育文化センター教材だより平成10年12月, 8号.
※下記の要約文の小タイトルは、私が勝手につけました。
事実
現実に、わからないという事実が私たちの目の前にあります。 理解、理解、理解、理解が大切だということは誰でも十分にわかりすぎるぐらいわかっています。 けれども、理解しなければならないというだけでやっていけるでしょうか。 どんな世界でも人間の知識や技術には限界があります。
専門家と呼ばれている人たちは、そんな状況に対して、実に巧みな理屈を作り上げ、物語を繰り広げます。 これらの現実と切り離された物語が、今日、子どもを理解しようとしている教育現場の人たちを混乱・荒廃させていると考えられます。その例は、神戸中学生連続殺人事件でのマスコミ・専門家の解説にも見ることができるでしょう。
わかりやすく解説することも、わからないときはわからないとはっきり言うのも専門家の役割でしょう。 わからないということを正面から受け止め出発しないと、難しいことに対応することができないと思います。 わからなかったらお手上げで、何もできない。 みんなそう思ってしまいがちですが、大変な誤解です。
説明
よくわかっていないのにわかったふうな話を作り上げてみても仕方ありません。 わからなくとも問題は解決します。 わからなくともいい状態にすることができます。 理由がはっきりわからなければならないと、そのように思い込んでいるのは、わかる人・わからない人をわけていく学校教育のせいです。
200年ぐらい前、近代科学がこれほど世の中を支配しておらず、もっと人間がゆったり、のんびり、余裕を持って、人間本来の感覚で生活していた時代、お百姓さんは、なんでイネが病気になるのか、なんで年によって害虫がたくさんついてひどい目にあうのか、よくわかりませんでした。 漁師さんも、なんで不漁が続くのか、なんで海がしけるのかよくわかりませんでした。
そういうとき、彼らは神様のせいにしてきました。 田圃の問題は、田圃の神様がご機嫌を損ねたと、海が荒れると海の神様がご機嫌斜めであるということにしていました。 それらは、今の知識では、原因がわかって説明がつき理解も出来るようになっています。
解決
しかし、昔の漁師は今ほど気象についての情報がないものですから、自分の長年の感で海の色を見、夕方のようすや雲のようすを見て、これは嵐が来るとか、今は波が高いが昼からは凪いでくるとか、直感で、長年の経験で判断しました。 農民もそうです。 上手に田圃を作って、そして、被害を最小限にしてきました。 これらは普通、知恵と呼ばれています。 知恵の蓄積は、いつの時代でも大切なはずです。
そうした経験の蓄積による知恵の生産は、近代科学の発達に取って代わられ、その近代科学は大きな問題を次から次へと解決してきました。 あっという間に人口が半分になってしまうような恐ろしい病気も、抗生物質の登場で、今や地球上から姿を消すほどです。 あるいは、農業技術の発達で、かつて飢饉に苦しんだのも、食料を大量に生産し、不足しているところに回すという方法で解決できるようになっています。 天候の不順に強い品種も作り出しています。
知恵
しかし明らかに、科学とか技術というもので対応しきれないものもあります。 そのもっとも代表的なのは、人間それ自身、子どもたちです。 考えてみると、科学や技術に目を奪われ、昔の人たちと同じように自分たちの経験の中から知恵、つまりよくわからないがこの問題はこうしておく方がいいという知恵の生産を忘れてしまったようです。 私たちは、昔の人以上に知恵を産みだす力を持っているはずです。
勘違いは教育に限ったことではなくて、自然科学ないしはそれに基づく技術、そういうところでも大きな勘違いで大変な問題を引き起こしてしまっています。 私たちは社会全体で数々の勘違いを犯してきています。 いま私たちは、頭の切り替え、発想の転換、柔軟な思考力が、もっとも求められている時代のように思われます。
自立
甘やかしに対して、子どもがわがままになる、子どもの自立がおくれるという考え方があります。 特に幼稚園・保育所では、自立は早ければ早いほどいいという考え方が強くあります。 お母さんが一喜一憂しています。 しかし、どうしてでしょうか。 そんなに自立が早ければ早い方がいいというんだったら、魚の子どもが一番えらいということになります。
魚の子どもは、親の世話にならずに生きます。 イヌは1年半になると子どもを産みます。 サルは3~4年で大人になって子どもを産む。 チンパンジーは7~8年。 発達途上国では14~15歳で子どもを産む。 日本やアメリカでは遅いです。 20歳で成人式を迎えますが、まだ心身ともに成人していません。 親から小遣いをもらい、親に着物を着せてもらって、親に車で会場に送ってもらうことだってあります。
自立というものは早いほどいいという事実はどこにもありません。 人間が、高等な動物で文化が進んでおれば、自立はそれだけ遅くゆっくりでしょう。 十分に依存の期間というものを過ごさせて、余裕を持って、自立の道を進んでいくというのが人間の育つ本来の道筋ではないでしょうか。 すべての動物が自立していきます。 なのに、一番賢い動物である人間にとって、自立がそんなに難しいことでしょうか。
成長
だいたい、自立ということを教育の目標とすることが見当違いです。 なかなか自立しないということが片方にあることは事実ですが、自立しないように育てるということができるでしょうか。 子どもというものは自立することを願おうと願わまいとそれなりに体が大きくなり、力が付いて、精神がしっかりして、知恵がついて、能力がついてくると、おのずと自立するものなのです。
自立というものは、成長の結果としてでてくるものです。 おかたづけが出来るか出来ないかよりも、玩具でちゃんと遊べるということの方が子どもにとって重要です。 子どもは遊びくたびれて動けなくなるだけ遊んで、遊びの中で育ってほしいと思います。 かといって、かたづけなくてもいいという議論はちょっと話が極端すぎるかもしれません。 「おかたづけ」ではなく、「明日の用意」「明日の準備」というふうにしてはどうでしょうか。
明日の計画、未来に向かっての計画、未来に向かっての見通し、先々に向かっての方針を決定していくこと、これを子どもに明日の遊びの予定を考えさせることを通じて身につけさせることが教育にとって大事ではないでしょうか。
自発
自立というのを少し余裕を持って遅めにゆっくりと育ててやると、自立の催促をしなくても、子どもは自分自身の力で自立するはずです。 自立というのは、子どもの方からするものです。 いったん自立しかかった子どもは、パジャマのズボンを親がはかせるとわざわざ脱いで自分ではき直す。 一人でやりたいというのはこれほど強烈なものなのです。
わがままはダメといいますが、わがままを育てることは大切です。 わがままの基本パターンは、ダメですというのを無理矢理乗り越えてやってしまうことです。 実は、わがままというのは困難を乗り越える、困難を困難とせず乗り越えていく原動力でもあるのです。 わがままは子どもの行動のなかで、社会にとって、大人たちにとって都合が良い、都合が悪いと判断して、都合が悪いもののことをいうものです。
しかし、もしわがままでないとしたら、自分を全部押し殺すことになります。 それぞれの生き甲斐、存在の実感とは何でしょう。 やりたい、やりたいけれども障害がある、その障害を乗り越えた時に一番充実を感じる。 生き甲斐、存在の手応えを感じるときです。 わがままこそ人間の存在の一番基本ではないでしょうか。 わがままは、両刃の剣といえるでしょう。
行動
私たちの日常生活中の具体的な行動は、自然科学の研究法をあてはめることができます。 その行動にとって重要なことは、行動は次々と変化を遂げることです。 私たちは頭の中で知らず知らずのうちに行動の上位に精神をおいています。 行動を支配するのは、精神あるいは心だと考えています。 これはキリスト教文化の人間観の影響によるものです。 日本の伝統的な考え方は、平衡関係です。 心が行動に、行動が心に影響をあたえるという両方向性の関係です。
行動の結果は精神の内容に影響し、精神の中身は行動に影響してきます。 決して上下の一方向性の関係ではありません。 頭の中で決心と具体的な行動とは別ということがあるでしょう。 頭の中でそれほど思っていないのにちゃんと行動ができることもあります。 決して頭の中の思いが行動を支配しているのではなく、精神と行動は相補関係にあるのです。 それぞれに独立している部分があるわけです。
経験
行動はいろいろ変化します。 いい方へ変わったり、わるい方へ変わったりします。 どちらの行動にしても、行動の直後にどんな出来事を体験するかということが、その後の行動に大きく影響をあたえます。 行動の直後にプラスの体験がある場合、つまりトクをする、ホッとする、心が和む、心が楽しくなる、手応えがある、充実感があるなどの場合と、行動の直後にマイナスの体験がある場合、つまり損をする、叱られる、痛い目にあう、しんどいだけ、馬鹿にされる、蹴飛ばされるなどの場合とでは、どうでしょう。
行動の後のプラス体験はその行動を強化し、行動の後のマイナス体験はその行動を抑制します。 なぜこうなるのかはわかりません。 ですが、人間の行動は、その直後の出来事が左右すると確かめられています。 ただし、勉強をしたらおいしいものをあげる、といった子どもとの取り引きは、これに含まれません。 我慢の直後の出来事が重要にもかかわらず、重要な要素を行動の直前にもってきてしまうからです。
ブログ「生活と人間行動」の記事(2005年1月22日)再記。