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お城の引っ越しで家康が気にしていた名前と方角についての逸話

こんにちは、両兵衛です。
ここでは現代の私たちにも通じる戦国逸話を取り上げています。

先日、知人を訪ねて浜松へ。行列のできる浜松餃子のお店に連れて行ってもらった後で、元城町東照宮もとしろちょうとうしょうぐうへ行ってきました。浜松城公園の東に南北に国道152号線が走っていますが、道路を渡って坂を登ったところにあります。

ここは曳馬ひくま(引間)城跡に作られました。曳馬城というのが、そもそも浜松城の前身といっていい城です。

浜松城は徳川家康が作った城として知られていますが、元亀元年(1570年)に家康が曳馬城に入城し、拡張や改修して浜松城と改称しました。

その改称理由というのが、曳馬が「馬を引く」、退却する敗北するを意味して縁起が悪いからだそうです。そこで、以前からこのあたりにあった地名にちなんで浜松城に改称しました。

現代以上に吉凶の占いや縁起を重要視した時代だからこそですが、居城を浜松城から駿府すんぷ城に移す際の家康の逸話も、その一端がわかりますのでご紹介します。

天正十四年(1586年)、家康は浜松城から東の駿府城へ居城を移すことにした。

「このまま東海道を東へ進んでよいものか」

という家康の問いに占い師が答えた。

「家康様は、このまま東へ進んでもよいのですが、秀忠様は、そのまま東に行くと禍がございます。一度、浜松城より南に向かいます。そこから東に進み、駿府近くで北上されるのがよいでしょう」

家康と秀忠はその通りにしたという。

縁起の悪い方向に行きたい場合、一度別の方向に出向いてから目的地へ移動する「方違かたたがえ」というものですね。

そうえいば以前、別の記事で秀吉が自分の都合のいいように解釈して占いに従わなかった逸話をご紹介しました。

本能寺の変で中国地方から京へ向かう際、占いで姫路城へ二度と戻れないと出たのは吉兆である。姫路城へ戻れないというのは、つまり明智光秀を破り天下を取って戻ってくる必要がなくなるということだからだと言ったという逸話です。

現代で私たちが軍師と呼ぶ人たちの原型は、吉凶を占う軍配者だったという話もあります。そういう人たちの占う吉凶を家康は重要視していたというのが浜松城への改称や駿府への移転の話からわかります。

秀吉のように解釈して振る舞うのも、家康のように信じて振る舞うのも、結局自分が納得して行動できるならどちらを選択してもいいですよね。

ちなみに天下分け目の戦いとして知られる関ヶ原の戦いですが、この出陣の日取りも家康はちゃんと占わせていたようです。

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