名将である前にひとりの父親だった武田信玄
こんにちは、両兵衛です。
ここでは現代の私たちにも通じる戦国逸話を取り上げています。
普段はこうやってnoteに逸話を取り上げる記事を書いたり、最近は戦国時代の今日、何があったかをつぶやいています。
ただ、ときどき人前で戦国逸話をお話する機会もいただきます。以前はカルチャーセンターのような場で、半年くらいだったかな月一回お話したこともありました。
先日は6月第3日曜の父の日ということで、お題をいただいて父親としての戦国武将についてオンラインで話す機会をいただきました。
それが朝あって、夜はまた別の場でまた話すというダブルヘッダー。
「戦国逸話~両兵衛のメガネ~」というfacebookグループを作っていて、私のお伝えする逸話に興味を持っている人が登録してくれています。月2回ペースで逸話座談会をzoomで開催していますが、同じ日の夜ここでもまた話していました。
今回、父親としてという目線で話をするために、何人かの武将について本を読み返したりしました。その中に武田信玄がいました。
信玄といえば、武田二十四将に代表される強力な家臣団を築き、家臣たちのことを考えた数多くの逸話を持つ名将というイメージがあります。
一方で、家族に対してはやむを得なかったとはいえ、父信虎を追放し、嫡男義信を幽閉します。義信は幽閉中に亡くなりました。結果だけを見ると、身内への愛情という面では希薄だったのだろうかと思われてもしかたありません。
でも、決してそんなことはありませんでした。
次男龍宝が天然痘で失明すると、信玄は眼病に霊験あらたかといわれた薬師如来に願文を捧げました。もし両眼が治れば寺領を寄進します。もし片眼が治れば仏門に入れます。しかし治らないのであれば、自分の右眼を龍宝に与えてほしいと願文に記載しました。
北条氏政へ嫁いだ五女黄梅院が懐妊したと知ると、信玄は富士御室浅間神社に安産と母子の健康を祈念した願文を捧げました。現存するものだけでも弘治3年(1557)と永禄9年(1566)に捧げた願文が残っているので、懐妊の度に捧げていたのでしょうね。
身内への愛情が希薄とは真逆の優しい父親の顔が見えました。武田信玄も名将である前に子を想うひとりの父親だったんですね。
私も子を持つ父親です。"戦国武将"という存在よりも、同じ父親としての体温を感じられる距離に少し近づけたような気がします。