牧歌的なTwitterを思い出す~千葉雅也『ツイッター哲学 別のしかたで』を読む~
インターネットとの距離感を考えて、そろそろ一年。距離感どころか関わらない方がいいという結論に傾きつつある。
「SNSはクソだぜ。あそこに見る価値があるものなんてねえよ。」
そう語ったのは我が親友だが、自分も概ね同じ考えであった。そんな話をしながらも親友に自分は言う。
「でも、そんなドブ川みたいなタイムラインでもお前の投稿は楽しみにしてる。」
「そう、俺はみんなに「お届けする」感覚だからな!多いに楽しみにしてくれて結構!」
自信100%の我が親友はさておき、彼のような、誰かのツイートを楽しみにするというのは、少し前なら珍しいことではなかった気がする。始めたばかりの頃のツイッターはもう少しのんびりしていたと思う。何でこんなにもスカッとしない場所になったんだろうとふと思った。
千葉雅也先生の『ツイッター哲学 別のしかたで』を読みながら、10年以上前のTwitterに思いを馳せてみる。
「授業なう」とか「バイトなう」とか言ってた連中はどこに行ったんだろう。なうは死語なのかもしれない。「授業なう」とかつぶやいたら、終わった後の遊びの誘いとかが友達から来たり。そういうのが楽しみだった。
ツイッターが牧歌的だった頃に思ってたことの一つとして、身近な誰かがたまに心の内を吐露してるのが面白かった。今みたいに冷笑的に見るのではなく、「あ、こいつもこういう風に思う事あるんだー」みたいな、ギャップというか新たな一面を発見する感じだ。あれは、新しい人間関係が始まりそうな予感がして好きだった。
自分にもあった、そんな時期。一方で、その場にいた親や先生に「それ、意味間違えてるよ」と指摘された時の恥ずかしさもよく覚えている。あの時、ちゃんとした大人がまわりにいて良かったと思うし、自分もそういう存在になりたいんだけど、現実ではそういう大人はあまり求められていないんじゃないかとすら感じてしまう今日この頃。
この文化も危険になったよねという話を、ついこの前友達としたばかりである。ツイッターはいつから庶民の公会議場になったんだろう。夫婦や恋人同士の、「相手から受けた扱いがいかに酷いか」を訴えるツイートがコレでもかというくらい流れてくる。…宮台真司の話だし、間違ってないよね?
最近、世の中にはコントロールフリークが多過ぎる。みなさん、疲れないのかしら。そして、疲れるくらいに誰かを攻撃しているけど、その割には得るものが少ないだろうなと思っている。
自分の生活でいうと、こういう友達を親友と読んでいる気がする。何かに行き詰まった時、彼らと美味い酒と飯を囲んで、どうでも良い話を、たまに出る至言を大切にしていきたい。
今日の結論:ネットよりも友達と話してる方が楽しい。