残念の魅力:サラリーマンが幸せになる方法 その51
これは、サラリーマンが幸せになるために「ありたい自分( being )を軸に持ち、ありたい自分を良好な状態( well-being )にし続けること」について書かれた note です。
前回、普通の凄さについて書きました。しかし読みようによっては「普通じゃないとダメ」というメッセージにもなり得るなと感じます。そんなことは全然ないと思うのです。普通「以上」については私がいまさら書く必要もありませんので、今回は普通以下の「残念」の魅力について考察します。
※前回の普通についてのコラムはこちら。
コンプレックス・短所・障壁などのネガティブ面
コンプレックス、ありますよね?
ありませんか?では短所はどうでしょう。他人より劣っていると感じていることや、人生にネガティブな影を落とす過去。その他、心身や社会的に課題や問題を感じていることはないでしょうか。
誰しも必ずなにかあると思っています。
私にもあります。むしろ長所なんかないと思っているくらいです。
意識的に蓋をしたり、乗り越えたり、今まさに直面していたり、いろいろだと思いますが、それを他人に開示できている人はどれだけいるでしょうか。
開示するなんてとんでもない。
できるだけ人に悟られず、なんでもないフリをして普段を過ごしている。そうした方がほとんどだと思います。でもこれ非常にもったいないんですよ。
なぜなら、それこそがあなたを輝かすポイントだと考えられるからです。
コンテンツ
うつ体験。
新興宗教からの脱退。
貧困・貧乏。
以前の価値観では絶対にコンテンツになり得ない、こうしたネガティブワードが書籍・映画・ドラマなどのタイトルに並ぶようになりました。今や全然めずらしくなく、「神○○」「△△が九割」などのパワー系タイトルより多く感じるくらいです。
ネガティブな体験や状況は立派にコンテンツになるのです。
「積み木崩し」あたりが元祖だと思いますが「五体不満足」で再燃し、今のような潮流がうまれたのは「ツレがうつになりまして。」「ホームレス中学生」「ママはテンパリスト」が流行ったあたりのように思います。
初期の頃は、ネガティブな状況から努力や幸運で抜け出したシンデレラストーリーや、ポジティブに笑い飛ばす系が多かった気がします。その内、ただただ辛い胸の内や状況を書き綴ったものも増えてきました。
BLOGやSNS文化と共に、多くの人がそうした発信をしだし、多くの「わかる」を生み出してきました。
つまり求められているのは、問題 → 解決策、だけじゃないんです。
自分と同じ状況、同じ辛さを感じている人が他にもいる、と感じられること。それこそが何よりも当事者の救いになっているのだと思います。
いま現在つらい人はシンデレラストーリーに共感できないのです。
長所は共感されない
「フォロワー○○人で年収××桁!」「△△投資で億り人!」などプロフィール欄で成功者であることをうたい、定職でコツコツ働く人たちをネガティブに評価することで自分の立ち位置を誇示する人たち。
バブル期から誰もが「勝ち組」を目指していた時代までの残り香です。
うらやましいですね。
憧れます。同じような立場になって生活のためだけに働く日々を脱したい。
しかし共感となるとどうでしょうか?
おそらく心から「わかる」ことは出来ない気がします。わかりたい、ならありますが、同じ立場になって同じ感情を感じることはできません。少なくとも凡人の私にはできない。
共感できないからダメ、という訳ではありません。
トップランナーや抜きん出た人は、得てして共感されないものです。支援や支持、応援、追走などはあるかも知れません。ただ時には妬み嫉み、悪意のある感情をぶつけられるでしょう。その悪意で歩みを止めてしまう人、心が折れてしまう人もいるように見受けます。
反対に、共感する相手に悪意をぶつけたり、無視したり恥をかかせたり、という行動は取りにくいと思うのです。共感してもらうことは最高の自己防衛でもあると言えるのではないでしょうか。
自己開示・自分事・共感
共感されるトップランナーたちは、皆さんこぞってどのくらい自分にイケてないか自己開示しています。失敗談や恥ずかしい体験、思っている以上に質素な暮らしや、子育ての苦労話。こうした「思ってたよりダメ」な一面はその人をより身近に感じさせます。
そうすると雲の上の人じゃなくすぐそばに感じられ、「わかる」が共感をうみ、血の通った人間味を感じるようになります。ネットの誹謗中傷は、どこか他人事化した人間味を感じさせないデータ、いわゆる画面の向こう側を相手にしている感が引き起こしていると考えています。そのため、すぐそば化つまり自分事化してもらうことで身を守るという、著名な方々の処世術だと思います。
では私たち凡人はどうか?(決めつけすみません)
こんな失敗したんです!
子育て大変です!
そうだね。
で終わってしまうでしょう。共感も得ますし、身近にも感じてもらえますし、自分事化してもらえますが、等身大なんです。知ってる、という感じですよね。
だから引くくらいもっと残念の方が刺さると思うのです。
誰にも話せないような強烈なネガティブ自己開示が、そうだね、を超越した大きな共感とシンパシーを生むのだと思うのです。
鍵はギャップです。
スーパーマンに見える成功者や著名人が自分と同じようなチャーミングな失敗や苦労をしているギャップ。
反対に凡人が平凡な失敗を開示しても等身大で済んでしまいます。だから「普通」に見える人なのにそんな強烈な一面があったなんてというギャップです。
あなたのもっとも残念な要素が、あなたを輝かせ、同じ立場の方々の共感をうみ、その人達の救済となっていくのだと私は考えています。
残念があなたも他者も救うのです。
自己受容・他者許容
克服してなくていいんです。
もちろん乗り越えたノウハウは沢山の人たちの役に立ちます。しかし乗り越えていない、今まさに当事者であれば、応援してもらえるでしょう。共感してもらえて、頑張れって応援してもらえ、時には手を差し伸べてもらえるでしょう。
それはあなたが残念だからです。
ただ、残念で輝くためには2つ大切なことがあります。
まず自分の残念を卑下しないこと。
そして他人の残念を許容すること。
私なんて大したことない
自分は全然ダメです
こうした言葉は、謙遜しているようで、実は自分よりももっと足りてない人たちを攻撃しているのと同じことなんです。あなた程にも達していない人は、その言葉にもっと惨めな気持ちになるでしょう。
そして他者許容がない人は応援されません。
他者の残念に厳しい人をどうやって共感すればいいのか。そうした人と一見共感しているように見える関係性は、ただ目的を同じくした利害関係であって、共感・応援とは違うものだと思います。
自分を認める自己受容。
他者を認める他者許容。
well-being の基本だと考えています。
サスティナブルな幸福のためには自分は基礎であり、土台がなければ建物は倒壊します。社会的に良好という要素が欠如した他者を大切にしない人は well-being とは言い難いです。
だから「普通」と「残念」はあたなを幸せにし、他者を救い、well-bineg を支える柱になるのです。
まとめ
1.ネガティブな一面はコンテンツになる
2.残念が共感と応援と救済になる
3.「普通」と「残念」で well-bineg を支える
実をいうと、私は長所が何もない代わりに、際立った残念もありません。気付いてないだけで他者から見たら「よくそれで生きてるな」レベルの欠点があるのかも知れませんが、認知できていないです。だから失礼ながら、輝く残念をお持ちの人が心底うらやましい。誰か優しく私の残念を指摘してくれないでしょうか。
残念なコラムが、あなたのヒントになれば幸いです。