祖父の死を通じて
先日、祖父が亡くなりました。祖父は遠くにいながら孫である自分のことをずっと愛してくれました。本当に、今までありがとう。
そんな祖父の死を通じて本当にたくさんのことを考えさせられました。死について、愛について、家族について...数えきれないほど考えました。祖父が、たくさん考えさせてくれました。
今日はその中でも自分の中で大きかった「死」への考え方について書こうと思います。
身近な人の死を経験するのは中学生ぶりで2回目なので、葬式がどんなものかもほとんど覚えていません。
そして何より、自分の悲しみよりも父親や夫を亡くした人たちのほうがずっと辛いのだろう、でもその悲しみは全くわかりません。
どういう言葉をかけてどう行動したらいいのか変に冷静になってずっと考えていました。変なモヤモヤした感情に包まれていました。
そして、葬儀が行われました。家族葬だったのですが、言い方に困りますが想像以上に和やかでした。
そこで、自分のモヤモヤした感情の正体に気がつきました。
それは、「死」は必ずしもマイナスなものではない、ということ。
モヤモヤの正体は、「あまり自分が悲しんでいない」ことへの違和感でした。
自分の中で気がつかないうちに、死は「人を絶望させる」「悲しみが溢れて止まらなくなる」ものだという価値観が居座っていました。
そしてそれは、映画や小説などからくるイメージでしかないことに、気がつきました。
今回自分自身が、穏やかな気持ちでいられたのは、最後に先月会いに行けたこと、そして後日手紙で感謝の気持ちや想いを伝えられたことが大きいと思います。当時やりたかったことを全てできたという気持ちがありました。
そして、本当のことはわかりませんが家族みんなの空気が穏やかだったのも同じ理由である気がしました。実際、「もっと〜すればよかった」なんて話はほとんどなく、優しい思い出話で溢れていました。
このことから2点、自分なりの結論を述べると、
①死は必ずしも悲しいものではない
②死を絶望に変えないために、人と接するときはそのときやりたいことを全てする、自分が・その人が明日死ぬことを考える
という感じです。死について考えるのは、昔はタブーとされていたことが多かったようです。今でもその色は残っていると思います。
でも、毎日を幸せに生きるため、人生を考える上で死は向き合うべきものだと僕は考えます。
社会的にも教育段階でも死と向き合う体制がもっとあればいいな、なんて考えたりしてます。
頭の中がまだうまく整理できていなくてこんな感じになりました。今回亡くなった祖父には今まで愛してくれて、また死について向き合うきっかけを作ってくれて、敬意と感謝の意を表したいと思います。
今まで本当にありがとう。
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