見出し画像

自分が認められる自分になる

最近の自分にグッとささる言葉があった。

「この人生、「誰かに認めさせる」ことよりも「自分を認めることができる」ことの方がずっと大切だ」

前提として、「自分を認める」ために「誰かに認めてもらいたい」というケースがあることは見逃しちゃいけない。だけどそれを見逃さなかったとしても前者と後者は大きく違うと思っていて。

何が違うかというとベクトルの向きなんだと思う。

誰かに認めさせるってベクトルが完全に相手に向いている。相手に向くこと自体は悪いことじゃないんだけど、時と場合に応じてそれは”自分が心から望んではいない、だけど認められたい”みたいなことがあるんじゃないだろうか。

○○らしさ、とか、自分はこうでなきゃいけない、みたいな間違った(でも本人はそれが間違っているとは気づけていない)固定観念に縛られて、自分に負荷をかけて「認められる」ためにやる動き。これって結構しんどい。

それに、自分では結果をコントロールできないことが難しさでもある。例え自分が頑張ったとしても、期待した効果が得られないのがこの思考で。期待した効果が得られないのであれば、頑張った意味がなくなってしまうのがこの思考で。

一方で「自分を認めることができる」って言うまでもなくベクトルが自分に向いている。自分のなりたい姿、ありたい姿があって、そこに近づくために行動する。その通りになれたとき、自分を認めることができる。

これって評価基準が自分にあるから、自分がやったかやらないかで結果をコントロールできる、いわゆる”コントローラブル”な部分である。


ただここまで書いたことが綺麗ごとだ、ということもわかってる。
そりゃすべてを自分でコントロールしたいに決まっていると。でも1人じゃ生きていけなくて、必ず何かしらの組織だったり誰かしらと関わったりして生きていくわけで。他人の目、評価は気になってしまうものだ。

それは百も承知の上で、でも、
自分の人生の責任をとれるのは自分だけだし、自分のことを守ることが出来るのも自分だけ、ということは忘れちゃいけないんだろうなと思う。

誰かに認められたくて頑張って、でもそこで頑張りすぎちゃって壊れちゃったら認めてもらう以上に取り返しのつかないことになってしまう。

それだったら、少なくとも「自分が認められる自分でいること」が先決なんじゃないかって。だから頑張りたい時は頑張ればいいし、頑張れない時は頑張らないことを選んでもいいと思っていて。

それら含めて自分のなりたい姿、ありたい姿はちゃんと定めておかなきゃいけない。


ただこの文章は、結構自戒も込めて書いてるものだ。

自分も生まれながらにして「認めてもらいたい」が強い人間だったから。
徐々にその鎧を脱いでいるけど、まだまだ脱ぎきれていない部分もあるからね。


いいなと思ったら応援しよう!

塩浦良太
今後の記事の質向上のための資金として使わせていただきます!